26/10/2022

2022.10.26(水) #日々の聖句 #ローズンゲン 聖書のことば

くじによって選ばれた本日の旧約聖書のことば
詩編82編8節
神よ、立ち上がり、地を裁いてください。
あなたはすべての国民をご自分のものとされます。
 
旧約聖書に応じて選ばれた本日の新約聖書のことば
ヨハネによる福音書3章17節
神が御子を世に遣わされたのは、世を裁くためではなく、御子によって世が救われるためである。
『聖書 聖書協会共同訳』より引用・利用

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私たちにとって「神による裁き」とはいったい何なのか。今日のふたつの聖句を通して黙想させられたことです。
 
キリスト教の長い歴史のなかで、神の裁きをことさら強調することによって、正しい道へと帰って神とともに歩むことの大切さを説く伝道のスタイルというものは、確かに存在しました。時に、政情が不安定になったり、不況で人々の生活が苦境へと陥ったり、世界的な疫病や戦争が起きれば、必ずと言って良いほど、そのようなアプローチがあったことは歴史が証明しています。「今こそ、神の裁きを避けるために、神を信じれば救われる」のだと。
 
このことは、聖書にしたためられている預言者を通して、またイエスによって語られた「終末のしるし」と呼ばれる言葉の数々を通しても、そのようなアプロ―チがあったことを、私たちも認めることができます。しかし、だからこそ、私たちは考えたいのです。神の言葉を受け取り、それを運用する私たちの「心がまえ」というものをです。
 
裁きに限らず、恐怖をちらつかせることで、人は恐怖の被害者にならないために、裁きの執行者の意向に従うことが多々あります。滅ぼされないために、怒りを買わないために、私たちは何ができるだろうか、という発想です。これは一定の効果があることも確かです。しかし、それで本当に良いのだろうか。それが、神を信じる私たちの土台であって良いのだろうか。そう感じさせられるのです。
 
今日の新約聖書の言葉には、はっきりと神の目的というものについて記されています。私たちを、そして世界を裁くためにではなく、私たちすべてを救いの道にあずかって欲しいとの一心で、神は救い主イエスを与えられたのだと。つまり、裁きありきの話なのか、救いありきの話なのかという、優先順位の話に他なりません。神は私たちを裁くことをはるかに勝って、私たちをご自分の愛でこよなく愛された結果として、救いを何のためらいもなく差し出してくださる方である、というのです。
 
そう考えますと、裁きという言葉に対する私たちの定義も変わります。裁きという言葉は、私たちにとっては、何か断罪されえることを目的に執行されるようなものと思ってしまうのではないか。しかし、裁きとは神の深い「判断」のことを指します。神が私たちに対してどんな判断をなされるかを、神はご自分の深い計画を、ご自分の愛に基づいて、その結果として私たちの命を支え、守るために、私たちの状態云々にかかわらずイエスという救い主を与えられたのです。
 
ですから、私たちは神の裁きというものを、人を脅し、人を言うなりにさせるための道具に使うことは決して許されないのです。それを「裁き」であると定義づけることがあってもいけないのだと。神の裁きは、私たち人間への救いの行為である。まず、そこから始まる神の裁きというものを、私たちはどれだけ理解し、そのことを私たちの生きる希望とすることができるかに、この言葉の意味というものがあふれているのではないだろうか。私はそのように受け止めました。
 
地を裁かれる神は、ご自分が創造されたこの地全体を「とても良かった」と絶賛し、そこにご自分の姿に似せた人間をお造りになられました。それをすべてつなげるのは、神がどれだけ人間のことを大切に思っておられるかという、愛の表れを私たちが読み取っていくならば、裁きについても、恐怖を動機としない、健全な見識というものを持つことができるのだと思います。
 
神は人を愛された。その愛にどのように応えることができるだろうか。一日が、そのようなところから起きる私たちの生活へと導かれますように。ただ、神の助けによって。心よりお祈りいたします。

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