28/10/2022

2022.10.28(金) #日々の聖句 #ローズンゲン 聖書のことば

くじによって選ばれた本日の旧約聖書のことば
申命記31章13節
まだ(律法を)知らない子どもたちがこれを聞いて学ばせるように。
あなたがたの神、主を畏れるようになるためである。
 
旧約聖書に応じて選ばれた本日の新約聖書のことば
ローマの信徒への手紙2章10~11節
すべて善を行う者には、ユダヤ人はもとよりギリシア人にも、栄光と誉れと平和があります。神は人を分け隔てなさいません。
『聖書 聖書協会共同訳』より引用・利用

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神は人を分け隔てなさいません。
 
今日は、この言葉に心惹かれました。あらためて私たちの神がどのような御方なのかについて、思いを寄せてまいりたいと思います。
 
今日の旧約聖書の言葉は、律法のことばを聞かせる対象として「こども」が登場します。ここで登場するこどもとは、いわゆる「おとな」に対する存在としてのこどもなのではないか。私はそのように受け止めました。私たち「おとな」は、こどもたちに対して、どのような意識を抱いているでしょうか。
 
律法の言葉を学ばせるべき対象として、こどもの存在がある。今日の旧約聖書の言葉である申命記には、特にそのことが記載されています。つまり、おとなにとっての責任として、こどもたちに、届く言葉で、神の言葉をしっかりと伝え、こどもたちがそのことを理解するように育てることでした。神の言葉を理解するという点においては、実はおとなとこどものあいだに差というものは存在しない。私はそう思います。
 
まだこどもだから、まだ若いから。人生経験を積んだおとなたちは、そのようにこどもたちのことを一段低く見てはいないだろうか。そんな問いが、自戒のように突き刺さってくるのを私自身感じます。たしかに、おとなは人生経験を蓄積しているからこそ、幼年・青年層にはない熟練した知識を提供できるかもしれません。しかし、だからと言って、こどもたちの考えることを低く見る必要はどこにもないし、その理由もないということだと私は思います。若い人には若い人なりの良い感性があり、こどもたちの発想からは、大人が考えもつかないような、柔軟なものが発見されることなど、いくらでもあると私は思うのです。
 
大切なのは、おとなであろうがこどもであろうが、神が私たちに良いものを与えてくださるという点では、なんも変わりないということです。そこに差をつけるのは、私たち人間の悲しい性なのかもしれません。
 
神の良いものに生きる人ならば、本来神の民として選ばれたユダヤ人も、いわゆる異邦人として新たに神の救いの範疇に招かれたギリシア人にも、同様に、分け隔てなく、神は祝福をお与えくださる方なのだと。この意識を私たちが抱くときに、では、私たちのなかにある「差別しようとする意識」を、どのように捉えることができるのだろうか。そんなことを想いつつ、今日も神のなしてくださることを、心からの信頼をもって受け入れたいと願わされました。
 
すべてを善へと向かわせてくださる神の栄光が、皆さんの行く道を照らしてくださいますように。心よりお祈りいたします。

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