23/10/2022

2022.10.23(日) #日々の聖句 #ローズンゲン 聖書のことば

くじによって選ばれた本日の旧約聖書のことば
詩編50編16~17節
悪しき者に神は言われる。
「何のために、あなたは私の掟を数え上げ
 私の契約を口にするのか。
 あなたは私の諭しを憎み
 私の言葉をないがしろにする。」
 
旧約聖書に応じて選ばれた本日の新約聖書のことば
ヤコブの手紙1章25節
しかし、完全な律法、すなわち自由の律法を一心に見つめて離れずにいる人は、聞いて忘れてしまう人ではなく、行う人になります。このような人は、その行いによって幸いな者となるのです。
『聖書 聖書協会共同訳』より引用・利用

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言動一致。今日選ばれたふたつの聖書の言葉から、そんなことをあらためて思わされました。神から与えられた御言葉が、私の心に染み入るときに、それは私たちの日々の営みへと具体的に展開されていくときに、私たちに得られるものは幸いであることを望んで、今日の一日を生きることができるのだ。そんなことを思わされました。
 
敬虔という言葉がひとり歩きしているような思いを時々感じることがあります。よく聞く「敬虔なクリスチャン」という言葉に、どのような印象を抱くだろうか。そんなことを思う時、どうしても「清く、正しく、美しく」みたいな、品行方正に生きるといったイメージを持たれることが多いのではないだろうか。そう思うのです。しかし、大切なことは、そのような目に見える行いというものが、どこから来るものだろうかということに、私たちは注目することが大切なのだと私は感じるのです。
 
今日の旧約聖書の言葉は、とても厳しい指摘を私たちに与えています。聖書の言葉を口にし、掟や律法というものを声高に読み上げるのに、どうしてその言葉をないがしろにするような生き方をするのか、と。まさに「言動不一致」の状態がここにあります。神が私たちにお与えになられた律法の真髄は、神御自身が示された「愛」に他なりません。それは、のちにイエスが私たちに対して、律法の本質こそ神の愛にあると告げられたとおりです。
 
つまり、そこに愛はあるのだろうか。聖書の言葉が語られるときに、神の愛があふれるような世界が生み出されていくことを、私たちは生活のあらゆる場面で経験し、その経験を喜んで私たちが味わい、それを自分自身の生き方としていくこと。これこそ、私たちが「敬虔さに生きる」ということなのではないか。そう思えてならないのです。
 
敬虔なクリスチャンと聞くと、どうしても品行方正といった規律正しい生活ばかりに目が行ってしまうのは私だけでしょうか。神の愛は、時には激しさを生み、熱意があふれ、闘いがあることを考えれば、決して上品なさまとは言い難い現実を生み出すかもしれないのです。しかし、見た目にはお上品とは思えなかったとしても、そこに神の愛という土台があふれているのであれば、それこそ敬虔そのものなのではないだろうか。私は神が与えてくださる愛にもとづく敬虔によって生きたい。そう思わされるのです。
 
私たちの幸いは、神の愛という武具をもった闘いが、自分自身に対して、そして社会に対して向けられ、その闘いによって味わうことができるものなのだと。そんなことを胸にしつつ、この新しい一週間の日々を歩んでいきたい。そのさきがけとなる今日の礼拝を喜びたいと心から願わされました。皆さんの一日もまた、そのような幸いのスタートを切るときでありますように。心よりお祈りいたします。

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