10/10/2022

2022.10.11(火) #日々の聖句 #ローズンゲン 聖書のことば

くじによって選ばれた本日の旧約聖書のことば
申命記26章15節
あなたの聖なる住まいである天から見下ろして、あなたの民イスラエルを祝福してください。
 
旧約聖書に応じて選ばれた本日の新約聖書のことば
ルカによる福音書2章30~32節
シメオンの言葉:
私はこの目であなたの救いを見たからです。
これは万民の前に備えられた救いで
異邦人を照らす啓示の光
あなたの民イスラエルの栄光です。
『聖書 聖書協会共同訳』より引用・利用

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神が私たちに対して祝福を約束してくださっていても、私たちがその祝福をなかなか感じることができないとき、私には神からの祝福が注がれていないのだろうか。
 
どんなに聖書を読んで祈っても、祈っても祈っても、神様の祝福を感じられないんですと、相談を受けることがあります。私は、相談される方の気持ちというものが、痛いほど伝わってきます。なぜなら、私も似たような経験を、これまで数えきれないほどしてきたからです。
 
私たちはやっぱり祝福されたいんだと思います。呪われたり、憎まれたりうらまれたりすることが気持ちいいなんていう人は、どこにも存在しないと私は思っています。そんな経験をしている今だからこそ、今すぐにでも祝福されたい。神がこの私に祝福してくださるのであれば、今すぐにでも私を祝福してほしいことを願い、神を信じる生活へと私たちは導かれているのです。
 
神が指し示された約束の地に向かって、何十年もさまよい歩いていたイスラエルの民たち。いいかげん、神の祝福はどこにあるのだろうかと疲れ果てていく民たちの姿というものを、私たちは思い起こすことができます。そんな民たちの心のうちを代弁するかのように、リーダーであるモーセは神に祈ります。祝福をくださいと。実は、モーセ自身も、約束の地に足を踏み入れるという神の祝福を、最終的に味わうことができない一人でした。祝福をくださいというモーセのとりなしの祈りは、モーセ自身の切なる祈りでもあったのです。
 
自分自身の眼では、イスラエルに対する祝福を見ることができませんでした。それをすぐ目前にしながら、モーセは死んでいきます。しかし、その後、モーセの後継者ヨシュアとともに、神は確かにイスラエルの民たちに祝福をお与えになられたのです。
 
私は、モーセと似たような経験を繰り返していると自分自身を振り返って思うことがあります。そして、とても悔しいというか、空しいというか、自分自身の無力感というか、そんな感情に支配される自分を発見してしまいます。神の祝福が注がれたのだから、それでいいじゃないか。そう思って私も喜びたい。しかし、喜べない。それどころか強い嫉妬心を抱いてしまう自分自身を見つけてしまうのです。何とも人間らしく、またいやらしい自分自身とおうものを発見してしまうのです。
 
だからと言って、神はモーセを、また私ですら、見捨てているわけではない。神は、その状況に応じて祝福を、その人にしか注がれない祝福というものを必ず注がれているということを、モーセは最終的に気付いてそのことに感謝の思いを寄せているし、私も私で、まったく祝福されていなかったかと言えば、そんなことはない。自分の願望とは違うかもしれないけれど、想い起こせば実に多くの祝福があったことを振り返ることができるのです。自分自身をつかんで離さないちっぽけなプライドが、それを思わせないように頑なに拒んでいるのだと、思わされたわけです。
 
今日の新約聖書の言葉に描かれているのは、生涯の最晩年に赤子イエスの姿に接し、その救いを喜び、神を賛美した信仰者シメオンの言葉です。シメオンは、具体的にイエスがどのような救いを展開されるのかについては何も知ることもないし、経験することなく生涯を閉じてしまいます。実現そのものを見ることはありませんでした。しかし、シメオンは生涯の最後に、赤子だったとしても、イエスに会えたというそのことが、自分にとって神からの祝福の何物でもないと、大いに喜びました。ほんの小さいことにも思えることに、神の大きな祝福を思う。私が改めて感じさせられたことでした。
 
今日も神からの祝福が注がれる。私がそのことに気づく思いが与えられることを祈りつつ、一日を過ごしてまいりたいと思いました。皆さんの一日の生活にも、どんなにささいなことであったとしても、すべてをご存知である方が、皆さんの今のために祝福されている。そのことを期待して過ごすことができますように。お祈りいたします。

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