20/10/2022

2022.10.20(木) #日々の聖句 #ローズンゲン 聖書のことば

くじによって選ばれた本日の旧約聖書のことば
イザヤ書12章1節
主よ、私はあなたに感謝します。
あなたは私に怒りを向けられましたが
その怒りを去らせ、慰めてくださいました。
 
旧約聖書に応じて選ばれた本日の新約聖書のことば
マタイによる福音書9章13節
イエスの言葉:
私が来たのは、正しい人を招くためではなく、罪人を招くためである。
『聖書 聖書協会共同訳』より引用・利用

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怒りはなんのためにあるのか。そんなことを、今日与えられた聖書の言葉から黙想してみたいと思いました。
 
私は正直に言えば「怒りの沸点」というものがそんなに高くありません。何かあるごとに怒り、その怒りをあらわすことがあります。人間なのだから当たり前じゃないか。そうおっしゃってくださる方もおられるのですが、大体は怒ることで、その後良い展開を生んだということはほとんどありません。周囲に傷を与え、自分自身が後悔する。そんなことの繰り返しです。しかし、そんな苦い学習のおかげで、最近では怒りの感情というものを整理して、それを客観化する作業というものに心がけるようになりました。それが決してパワーハラスメントにならないように。。。
 
怒りたくなる時。それは体調の悪いときや、自分の中で苦悩を抱えているとき、思い通りに事が運ばないときなのかなと思っていますし、誰でもそうなのかなと思っています。つまり、自分自身の心に余裕がないときに起こるのが怒り。そう考えています。自分自身に余裕がないと、つまり自分のことだけで精いっぱい。他に目を向けることなどどこかに忘れてしまう自分自身があることに気づかされます。そういう時こそ、心のどこかに余白が欲しい。そんなことを思わされます。
 
さて、本日の旧約聖書は「神の怒り」について触れられています。しかし、ここで描かれている怒りは、先に述べた私自身が抱えている怒りというものとは違う種類のものとして受け止めたいという私の思いがあります。神が私たちに対して抱かれ、そして向けられる怒りとは、ご自分の正しさに基づいた「義憤」だと私は考えています。この世の中で起こる人間関係がもたらす様々な歪みに対する怒りであり、自分自身のことだけでいっぱいいっぱいになり、神が私たちを平和のうちに治められるというその存在すら、忘れられ脇に追いやられるときに、神はご自分の正しさに基づいた怒りを、私たち人間に示されるのだと考えています。それは、単なるヒステリーの表出ではありません。
 
だからこそ、神はご自分の正しさをもって怒られたあとに、必ずと慰めを人間に対して与えられると、今日の聖書の言葉は語ります。神御自身の正しさは、怒ることよりも慰めることに比重が置かれているような気がしてならないのです。怒りで人を従わせようとする意図は、神にはないと私は受け止めたいのです。私たちの余裕のない心に慰めを与え、励まし、神が住まうスペースを与えてくださるために働きかけてくださる御方、それが私たちの神であると受け止めたいのです。
 
今日の新約聖書の言葉は、神の正しさが私たちを生かすようにとの願いを抱いている、イエスの慰めに満ちた言葉であると私は思いました。私たちの正しさは、不健全な怒りを生むこともたくさんあります。それは神の正しさというよりは自己正義から起こるときに、不健全な怒りを生み出す。そしてそれが露わにされるときに、平安が打ち壊される。そんな感じです。しかし、自分自身の怒りというものが整理され、客観化されるときに、はじめて神の慰めが私の心に慰めを与え、神と共に生き幸いを与えてくださるのだ。そう信じたいのです。
 
自分の閉ざされた環境のなかで育まれた正義に生きるのではなく、失敗し、後悔ばかりしてしまう私を、イエスは招いてくださり、ご自分の正しさを慰めをもって与えてくださる。そんなことを励みにして、今日という一日を歩みたいと願わされました。どうか、皆さんにとっても今日の一日が、そのようなときでありますように。お祈りいたします。

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