09/10/2022

2022.10.9(日) #日々の聖句 #ローズンゲン 聖書のことば

くじによって選ばれた本日の旧約聖書のことば
申命記18章18節
モーセへの主の言葉:
私は彼らのために、同胞の中からあなたのような預言者を立て、その口に私の言葉を授ける。彼は私が命じるすべてのことを彼らに告げる。
 
旧約聖書に応じて選ばれた本日の新約聖書のことば
テサロニケの信徒への手紙一2章4節
私たちは神に認められて福音を委ねられたので、このように語っています。人に喜ばれるためではなく、私たちの心を吟味される神に喜んでいただくためです。
『聖書 聖書協会共同訳』より引用・利用

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人を喜ばすために言葉を用いるのではなく、神が私たちを喜びに導くために与えてくださった言葉を、自分自身のために用い、それが神の喜びにつながっていく。
 
今日与えられた聖書のことばを通して、新たにされた思いです。よく耳にするのは「神に喜んでいただくために」私たちは何ができるだろうか、ということです。そのために、聖書の言葉に聴いて、それを自分自身のなかで吟味を重ねて、それを自分自身の言動としていく。よく言われることです。
 
しかし、私は思うのです。私たちが神を喜ばすためにということが先に来るのではないと。その前に、私たちを喜びへと導いてくださる神がおられるという大前提があるということです。その前提に基づいて、私たちはいかに神の喜びというものを聴き取ることができるかがないと、私たちは究極的に神を喜ばすことはできないのだと思うのです。神の喜びというものを知らずして、どうして私たちは神を喜ばすことができるだろうか。その主客というものが逆転してはならないのだ。そう思ったのです。
 
私たちは自分の善意であるとか良心、そこから来る親切心に基づいて人を喜ばせようとします。その思いは私たちの素直な思いから来るものです。しかし、それが独り善がりなものになってしまうことがあります。「良かれと思って」という言葉は、そういうところから来るのかもしれません。善意とは裏腹の結果が起こるときに、私たちはそのことに困惑することがあります。そこに何らかの負の感情が起こり、人間関係が円滑なものにならないときに。
 
ですから、人間の良心やそこから来る善意というものは、100%正しいなんてことはあり得ないことだと、私は実感します。それだけ、人を喜ばそうということは、その場限り、一時のことであればそれができたとしても、完全な保証を得るわけではないのだと思うのです。
 
であれば、人を満足に喜ばすことすらなかなか難しい私たちが、どうして神を喜ばすことができるのだろうか。私はそう考えるのです。だからこそ、私たちは「神の喜び」というものを与えられた者として、その喜びに満たされながら、その喜びを用いる者として新しい一日を生きるということでしか、神も人も喜ばすことができないのではないか。そう思えてならないのです。
 
神は、ご自分の言葉を人々に知らせるために、預言者というメッセンジャーを人々のあいだに遣わされました。そのためにモーセという人物がイスラエル民族に遣わされました。そして、神がイエスを通して与えてくださった福音という良きたよりを人々に知らせるために、パウロという宣教者が街々に遣わされました。あくまで、人間の良心をはるかに超える、神の喜びを伝えるために。
 
今日も、世界中の教会や集会で、主の日の礼拝や集いが行われ、神の喜びが告げられようとしています。その喜びこそ、私たちの生きるための源となることができるように、私も心を込めて、神の言葉を礼拝に集まる方々とともにいただきたいと願わされました。また、その喜びは、礼拝に集う者だけではなく、全世界のすべての人々に向けられているものなのだということを心に置きながら、一日を過ごしてまいりたいと願わされます。
 
どうか、神の与えてくださる喜びが、私たちの喜びとなり、その喜びを用いることができますように。今日一日のためにお祈りいたします。

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