04/10/2022

2022.10.4(火) #日々の聖句 #ローズンゲン 聖書のことば

くじによって選ばれた本日の旧約聖書のことば
申命記10章18~19節より
主は孤児と寡婦の権利を守り、寄留者を愛してパンと衣服を与えられる方である。だから寄留者を愛しなさい。
 
旧約聖書に応じて選ばれた本日の新約聖書のことば
マタイによる福音書25章35節より
あなたがたは、よそ者であったときに宿を貸してくれた。
『聖書 聖書協会共同訳』より引用・利用

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自分にとって「よそ者」とは誰のことか。そんなことを考えました。
 
昨日、ある自治体の議員である方が、ご自分のSNSで「同性結婚なんて気持ち悪いことは大反対!」という投稿をされました。あとでこの議員さんは、この投稿が軽率であったことを認めて謝罪されましたが、私は、これが人間の持つ感情であると同時に、感情というものがいかに人間を支配するかということを、つくづく思わされたのです。
 
気持ち悪い。ここに「よそ者」の定義と基準があるような気がしてならないのです。つまり、感情が私たちの心を支配するときに、その感情を正当化するために、世の中でうたわれているルールなどで理論武装して、さも万人共通の真理のようにドヤ顔をしながら豪語してしまうのです。一見立派に見えても、その中心にあるのは「気持ち悪い」という、私自身の感情なのだと。
 
もちろん、私も人間ですから、自分自身に感情がなければ生きていけませんし、その感情に振り回されることもほぼ毎日のようにあります。ですから、感情があること自体否定しているわけでは全くありません。ただ、私のなかで自戒をこめつつ思わされるのは、神がこの世界に対して示してくださっている御心というものに、私自身の感情が勝っているのであれば、それに気づいたのであれば、それを撤回する決意と方向転換が求められているのだと、強く思わされるのです。
 
では、神の御心はどこにあるのでしょうか。
 
今日私たちに与えられたふたつの聖書の言葉。孤児と寡婦の権利を守られ、定住地のない人々の生活を支え、私たちが自分とは異質であり、また仲間としてどうしても受け入れられないという感情的な理由だけで「よそ者」と断定してしまうような人々に、雨風しのげる場をためらいなく提供される方。それが今日の聖書の言葉でうたわれている神の御心だというのです。
 
だから寄留者を愛しなさい。イスラエルの指導者モーセは、神のそのような御心にふれ、では、あなたはどのように生きるのかと、民たちに問われました。私も今日一日の生き方が問われている。神から与えられた感情というものを、神の御心に答えるために用いることができますようにと、神に祈りつつ過ごしてまいりたいと願わされました。
 
神の目からすれば、よそ者などいないのだ。そんなことを胸にして生きるところに、神の平和がともに、豊かにありますように。お祈りいたします。

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