14/10/2022

2022.10.14(金) #日々の聖句 #ローズンゲン 聖書のことば

くじによって選ばれた本日の旧約聖書のことば
イザヤ書37章16節
万軍の主よ。あなただけが地上のすべての王国の神であり、あなたが天と地をお造りになったのです。
 
旧約聖書に応じて選ばれた本日の新約聖書のことば
エフェソの信徒への手紙3章14~16節
パウロの手紙:
このようなわけで、私は、天と地にあって家族と呼ばれているあらゆるものの源である御父の前に、膝をかがめて祈ります。どうか、御父が、その豊かな栄光に従い、力をもってあなたがたを強めてくださいますように。
『聖書 聖書協会共同訳』より引用・利用

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いのちの源である神によって今日も生かされる私。
 
今日与えられたふたつの聖書の言葉を通して、私が感じたことです。神によって私の命が与えられている、つまり「生かされている」という考えは、あまりこの世の中では受け入れられることは無いかもしれません。自分のいのちは自分自身のものであって、たった一度きりの人生、自分の思うようにその人生を用い、そして謳歌する。どのように用いようが、それは誰にも妨げられない私の自由なのだと。ましてや、神や宗教というものによって私の人生が侵害されることがあってはならないと。
 
昨今の旧・統一協会問題をはじめとするカルト宗教問題が世間を騒がせていますから、なおのこと、神とか宗教という名前が出れば人々をわなにおとしいれ、自由や人権を奪うものという印象が強くなっていると私は思います。それ実際に起きていることですから、そういう意見があるのは当然であると、私も思います。
 
そういうことを踏まえますと、宗教や神などに頼らなくても、私の人生は私自身で決断し、そして歩むことができる、いや、歩んだほうが幸せになれると。これが特に日本という国にあるひとつの風潮なのではないかと思うのです。
 
では、宗教に対する悪評とアレルギーが広がるなかで、私はどのようにそれを受け止めて、神に生かされているということを心から実感することができるのだろうか。そんなことを改めて黙想しました。世の中の評価というものに対して堂々と批判を、自分の正当性を訴え続ける。このことも大切であるかもしれません。しかし、もっと大切なことがあるとすれば、まず、自分自身が「神に生かされているがゆえの喜びや自由」というものを日々吟味し、確かめながら、そのことにひとりのクリスチャンとして誠実に生きていくなのだろうと。
 
それが「生かされている」という言葉に示された謙遜であり、敬虔であると言えるのだと、私は今日の聖書の言葉を通して受け止めたいと思いました。歯を食いしばって自己主張を繰り返さなくても、本当のことをご存知である神が、たとえそれができなくても誠実に生きたいと願う一人一人に、必ずご自分の力というものを与え、生かされている喜びと活力を与えてくださるに違いない。そんなことを心から望みつつ、一日を生きてまいりたいと思いました。
 
どうか、今日という一日が、皆さんにとっても生かされている喜びを実感できるひとときでありますように。お祈りいたします。

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