19/10/2022

2022.10.19(水) #日々の聖句 #ローズンゲン 聖書のことば

くじによって選ばれた本日の旧約聖書のことば
詩編38編23節
急いで私を助けに来てください。
わが主、わが救いよ。
 
旧約聖書に応じて選ばれた本日の新約聖書のことば
マルコによる福音書10章48~49節
盲人バルティマイは「ダビデの子よ、私を憐れんでください」と叫び続けた。
イエスは立ち止まって、「あの人を呼んで来なさい」と言われた。
『聖書 聖書協会共同訳』より引用・利用

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盲人であったバルティマイは、周りが制止したにもかかわらず、この私を憐れんでくださいと、イエスに対して叫び続けました。
 
ここで「盲人」、つまり視覚障碍者であったバルティマイが叫び続けたことに大きなポイントがあると私は受け止めました。先行き見えない不安というものを抱える人間を象徴するかのように、視力が失われたバルティマイが、藁にもすがる思いでイエスに対して叫び続けた姿が、とても象徴的に思えたからです。
 
イエスはかつて、山に集まった人々に対して、祈りとは言葉数が多ければいいものではないということをお教えになられました。くどくどと祈るのは異邦人のすることだと。
 
私はイエスがそのように人々に伝えられたことと、今日の新約聖書に描かれた盲人バルティマイの叫びとも言える祈りは、決して矛盾しないと考えています。言葉数が多くくどくどと祈るというのは、心がなく人に立派な祈りと思われるような美辞麗句を立て並べただけの祈りのことであって、決して諦めることなく叫び続けたバルティマイのそれは、心がただイエスという救い主一点に向けられていたのだと。
 
なぜ、バルティマイの叫びを周りは制止したのでしょうか。うるさい、しつこい、あのイエス先生を困らせるな、惑わせるな。そんな周りのイエスに対する「配慮」だからだったのかもしれません。もしかしたら、バルティマイの叫びを言葉数の多い、くどくどとした懇願にも思えたのかもしれません。そんな願いを、イエス先生はお嫌いになられるのだと。そう思っていた人もいるのではないでしょうか。
 
しかし、イエスは知っていました。バルティマイの心がまさに自分自身に向けられていたということを。だから、バルティマイを招きました。ここにこそ、祈りに応えられるイエスの姿を、私たちは見ることができるのです。私を憐れんでくださいという願いに、イエスは視力を回復されることによって、行くべき道を示され、その憐れみを示されました。
 
こういう祈りを私は神に向けて祈っているだろうか。私はそう思いました。昨日、懸案事項を行うために、遠出をして忙しく動き回っていました。ほぼ済ませることができたものの、ひとつだけ解決しないことがありました。交渉してみましたが現時点ではどうにもならないことを知り、少し落胆したのです。
 
そんなときに私は思ったのです。これまでも神は私の不安をよそに、すべて事を運ばせてくれたではないか。必ず何とかなる。そのように神はご自分の方法で導いてくださるよ。だから、そのことを信じて祈り続けよう。
 
とても心が平安になりました。大切なことは、日々祈り続けること。たとえ周りが、祈りなんてなんて馬鹿げたことをと言うことがもしあったとしても、イエスに心が向けられ、そして祈り続けることの大切さと幸いを想うこと、そして祈り続けること。そんなことを黙想させられました。
 
祈り続けることにもし疲れてしまったとしたら、その祈りを必ず聴いてくださり、ご自分の時が来るのを見計らっておられる神が、私たちとともにおられることを胸にして、今日も一日を歩むことができますように。お祈りいたします。

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