24/10/2022

2022.10.25(月) #日々の聖句 #ローズンゲン 聖書のことば

くじによって選ばれた本日の旧約聖書のことば
ネヘミヤ記9章33節
私たちの上に起こったことすべてにおいて
正しいのはあなたです。
あなたは真実を尽くされたのに
私たちは悪を行ったのです。
 
旧約聖書に応じて選ばれた本日の新約聖書のことば
ヨハネの手紙一1章9節
私たちが自分の罪を告白するなら、神は真実で正しい方ですから、その罪を赦し、あらゆる不正から清めてくださいます。
『聖書 聖書協会共同訳』より引用・利用

******
 
痛い目に遭って、はじめて物事の大切さを理解することができた。私たちは日々の生活のなかで、そんなことを経験することがしばしばあるのではないかと思うのです。そんな痛い目に遭うほど冒険はしていない。もちろんそういう方もおられるでしょう。しかし、私の場合はある意味痛い目ばかりに遭うほど、冒険的な生き方をしているのかもしれません。だからこそ、痛い目にもたくさん遭っているなあとつくづく思わされています。
 
神とともに歩んでいることに疑っていなかった神の民イスラエル。しかし、彼らがそう思っているだけでした。実際に神の期待というものに、目や心を向けることはありませんでした。どんなに神が預言者を彼らのもとに遣わして、言葉を通して神の思いを伝えても、彼らはその忠告に耳を貸しませんでした。自分は一生懸命神とともに歩んでいるんだから、そんなアドヴァイスなど必要ないのだと。
 
しかし、そんな彼らを襲ったのは、強国バビロニアからの侵略でした。油断していた彼らはその侵略に立ち向かうことができませんでした。このときに神への深い信頼を自分の土台としているのであれば、そのような危機にこそ、神にすべてを委ねるという選択ができただろうし、神はそれに応えてくれたかもしれません。しかし、彼らは神がおられるということを、究極的に自分自身の土台にはしていませんでした。ですから、パニックに陥ったまま、バビロニアに強制連行され、数十年にわたる捕虜生活を味わうことになりました。いわゆる「バビロン捕囚」と言われる出来事です。
 
どうして彼らは捕囚を経験しなければならなかったのでしょうか。神に信頼しなかったことに対する神がくだした罰でしょうか。私は違うと思います。神を信頼して生きることをないがしろにし、軽んじたゆえの、自業自得の結果だったのではないでしょうか。私はそう思うのです。
 
東日本大震災が起きたときに、被災地に多くの宣教者と呼ばれる人々がやって来て、この震災は神を信じなかった結果としてくだった「神罰」であると、住民に触れ告げたということがありました。ときの東京都知事も、原発事故は「神罰」であると言いました。神罰という考えは、人間にある意味での恐怖の念を起こさせます。しかし、本当に神は恐怖を提示させて人々を言うなりにさせるのだろうか。もしそうであるならば、それはカルトではないか。私にはどうしてもそう思えてならないのです。
 
バビロン捕囚からイスラエルに帰還した民たちは、これは私たちの責任なのだ。神様、あなたは何度も何度も、私たちを愛し、私たちに近づいてくれていたではないか。でも、私たちは見向きもしなかった。そして、今イスラエルの地に戻してくださったのは、神様、あなたではありませんか。これはあなたのせいではありません。私たちの自業自得なのです。私たちの責任なのです。今日の旧約聖書の言葉は、まさにそんなイスラエルの民の思いがあふれているような気がしてならないのです。痛い目に遭ってこそ、はじめて神の真実というものを、彼らは理解することができました。
 
神は、私たちが痛い目に遭ったことを理解したときに、必ず手当をしてくださる御方です。私たちが回復できるように導いてくださる方。それが赦しをもって働かれる私たちの神なのです。大切なのは、私たちが痛い目に遭った時に、そのことをいかに自分自身の問題として理解できるかということなのでしょう。たやすく他者に責任を押し付けるのではなく、自分自身を棚上げせずに自分自身に問い続ける生き方こそ大切なのだ。今日の聖書の言葉を通して、そんなことを黙想させられました。
 
主の日の休息が終わり、今日からそれぞれの場に向かっていく私たちに、そのような神の真実さがともに、豊かにありますように。お祈りいたします。

0 件のコメント:

コメントを投稿