22/10/2022

2022.10.22(土) #日々の聖句 #ローズンゲン 聖書のことば

くじによって選ばれた本日の旧約聖書のことば
歴代誌下20章12節
私たちには何を行うべきか分からず、ただあなたに目を向けるのみです。
 
旧約聖書に応じて選ばれた本日の新約聖書のことば
ヘブライ人への手紙12章2節
信仰の導き手であり、完成者であるイエスを見つめましょう。
『聖書 聖書協会共同訳』より引用・利用

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見つめ続けること。今日私たちのために選ばれた旧約聖書と新約聖書の言葉を結ぶのは、このひと言に尽きると私は受け止めました。実は、私はここのところ「見つめる」ということに、とても消極的な感情を抱いていました。ですから、今日の聖書の言葉は、あらためて見つめることについて考えさせられる機会となりました。
 
なぜ「見つめる」ことに消極的な思いを持っていたかというと、見つめるということと「執着する」ということをつなぎ合わせながら考えていたからです。ひとつのことを見つめ続けるのは、ときによっては自分自身の執着というものから離れられない状態ーそれが怒りであるとか、ある種のこだわりであるとか、きわめて支配的で独善的な欲であるとかーをつくり上げているのではないか。そう思うところがあったのです。
 
だから、そういうことを見つめ続けている自分自身があるならば、そこから離れることによって、平安を得ようと思っていたのです。しかし、今日の聖書の言葉を通してハッと気づかされたのは、では、これまで凝視していたその視線を、今度はどこに向けることができるのか、ということでした。その視線の先にあるもの。それこそ、主なる神であると。
 
私たちには見つめ続ける先がなければ、満足に歩くこともできない。周りを見ることも大切ですが、キョロキョロ見渡し過ぎて、それがよそ見になってしまえば事故を招いてしまう。今日の旧約聖書の言葉は語ります。私たちは何をして良いのか分からない、と。そう。行く咲も定まらず迷いながら歩き続ける。それが私たちの現実なのかもしれません。
 
しかし、何をして良いか分からないからこそ、人々は決断します。ただ、主なる神であるあなたを見つめるだけなんだと。今は何が起きるか分からない。しかし、神は必ず私が人生の道、今日一日の道を歩めるように、この私を平安へと導いてくださることを信じたい。
 
信仰の導き手(創始者という言葉が多くの聖書で用いられています)であり、完成者であるイエス。これが今日の新約聖書の言葉が伝える「信仰の実体であるイエス」の姿です。私たちが神を見つめ続けることによって得たいと願う平安を、信仰の実体であるイエスご自身が、私たちの手を引いて導き、イエスが示された完全に安心できる道を歩ませてくださる。だからこそ、自分の手の先にあるイエスを見つめ続けて歩もうじゃないか。そんな勧めの言葉が聞こえてきそうな、今日の聖書の言葉であると私は受け止めました。
 
私はどうでもいいことに囚われて何かを見つめ続けている。その執着から離れたら、どうして良いかわからずさまよい続ける自分自身。しかし、私には見つめる先がある。必ずあって備えられているのだ。そんな思いで、今週最後の一日を過ごしてまいりたいと願わされました。どうぞ、皆さんの一日も、そのような神の守りがもたらす平安がともにありますように。お祈りいたします。

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