12/10/2022

2022.10.12(水) #日々の聖句 #ローズンゲン 聖書のことば

くじによって選ばれた本日の旧約聖書のことば
イザヤ書59章19節
西では主の名を畏れ
東では主の栄光を畏れる。
 
旧約聖書に応じて選ばれた本日の新約聖書のことば
ルカによる福音書13章29~30節
イエスの言葉:
人々は、東から西から、また北から南から来て、神の国で宴会の席に着く。そこでは、後の人で先になる者があり、先の人で後になる者もある。
『聖書 聖書協会共同訳』より引用・利用

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先日、こんな相談を受けました。「神を信じない者は、やはり地獄へ落されるのでしょうか」という内容の相談でした。私は答えました。「聖書にはそのように解釈することができる記述があるのも確かですが、地獄に誰を落とすかというのは、最終的に神がお決めになることですから、そう簡単に人間が口にするものではないと私は思っています」と。
 
そして、私はこう続けました。「私は神が誰かを地獄に落とすことを考える前に、神はすべての人の命を守り、すべての人の命が危機から救われるために働いておられることを、まず第一に考えたいのです」。
 
これも、ある意味で言えば「私なりの聖書解釈」です。世の中には、神を信じなければ裁きを受け、地獄に落とされることをことさら強調する人たちがいることをよく知っています。地獄に落とされたくなければ、神を信じて命を得なさいというのも、ひとつのアプローチであることにまちがいありません。
 
しかし、誤解を恐れず申し上げれば、今申し上げた方法によって、神による救いを伝えるのであれば、そこには、それを聴こうとする人たちの恐怖心をあおり、その恐れを利用してはいないだろうかとどうしても思ってしまうのです。私自身、終末の滅びを強調するキリスト教系の、いわゆるカルト教団に身を置いていましたので、そういうアプローチを積極的にすることへの、強烈な違和感というものを覚えているのだと思います。
 
私のなかにあるそのような基本的な思いに基づいて、本日の聖書の言葉に心を傾けますと、私たちひとりひとりに、恐怖ではなく畏敬の念を抱かせるような神がおられるのだというイメージを想像します。主なる神の名前を畏れ、主の栄光を畏れる。主なる神の名「私はいる」という意味は、私たちとともにおられ、私たちの命を守るために日夜働いておられる神であることを思い起こさせます。そして、私たちの闇にご自分の光を投じさせ、私たちが暗闇のままでいることのないように、行く道を指し示してくださる神の栄光がまばゆいばかりにあるというイメージも、私たちのうちに起こさせる。畏れるとは、そのような神の働きへの深い感謝から起きる敬意の念そのものです。決して恐怖のことではない、そういうふうに私は受け止めたいのです。
 
そのように、神はご自分の民に名前と栄光を示され、ご自身のもとに遠慮なく招いておられる。これが、今日の新約聖書でイエスによって語られたところの「神の国の宴会」であると。これぞ救いの究極的なかたちと言えるわけですが、その宴会には恐怖というものは一切含まれていません。招きを断ったらあとでひどい目に遭うとか、何か同調圧力があって、それに従わなければならないから、しぶしぶ行くような類の宴会ではないと、私は受け止めたいのです。
 
神は私たちに恐怖心をあおったりして、救いの道というものを提示することはないと断言したいのです。神はイスラエルの時代から、ずっとそのようにして、人間の側の資質にかかわらず、ご自分の愛といつくしみによって人々を招き続けてきました。その宴会に、私たちは招待状を手にして、いつでも集まることができるのです。それが昔から招待状をいただいていたか、たった今招待されていることに気づいたか、そんなことに関係なく、いつでも、私たちは招かれた宴会の席に喜んでつくことができるのです。そこには上座も下座も存在しないのだと、私は今日の聖書の言葉を解釈し、受け止めたいのです。
 
聖書の言葉も解釈次第で、恐れにも畏れにもなる。しかし、私は畏れのほうを採りたい。それが一日の生活を豊かにするから。そんなことを心に抱き、神のなされることに期待しつつ、新しい一日を過ごしてまいりたいと願い、神に祈ることができました。どうか、皆さんの一日をも豊かに守り導いてくださる神が、皆さんを祝福してくださいますように。お祈りいたします。

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