14/07/2022

2022.7.14 #日々の聖句 #ローズンゲン 聖書のことば

くじによって選ばれた本日の旧約聖書のことば
詩編145編9節
主はすべてのものに恵み深く
その憐れみは造られたものすべての上に及ぶ。
 
旧約聖書に応じて選ばれた本日の新約聖書のことば
マタイによる福音書5章45節より
父は、悪人にも善人にも太陽を昇らせ、正しい者にも正しくない者にも雨を降らせてくださるからである。
『聖書 聖書協会共同訳』より引用・利用
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私は、今日の新約聖書の言葉に触れるたびに思い出します。それは、鎌倉時代の僧侶である親鸞が説いた「悪人正機(あくにんしょうき)」という教えです。ひと言で言えば、仏の眼から見て善が何であるかを理解できず、苦しみ悩む者(悪人)にこそ、仏の救いがあるのだと。『歎異抄(たんにしょう)』という親鸞の著作に「善人なおもて衆生を遂ぐ、いわんや悪人をや」という言葉が記されていますが、それはまさに、悪人正機の教えそのものであると言えます。
 
今日の新約聖書の言葉である「父は、悪人にも善人にも太陽を昇らせ、正しい者にも正しくない者にも雨を降らせてくださる」というイエスによって語られた言葉は、私たちの神が私たちのことをどのようにご覧になられておられるのかを示すものなのだと。そんなことを考えていると、私にとって善とは何か、悪とは何なのだろうかということを、つくづく考えさせられます。
 
ここのところ連日考えさせられていることですが、今回の安倍晋三さん銃撃・殺害事件を通して、私たちは何を悪と考えるべきか。そんなことを思うときに、銃撃をした山上徹也さんなのか、その思いを山上さんに募らせた統一協会(現・家庭連合)なのか、その信者となった母親なのか、関係が取りざたされている安倍晋三さんなのか、自民党など諸政党なのか、宗教という存在そのものなのか。もう考え出したらキリがないくらい、悪の所在というものを考えることができるのではないだろうか。そう思うのです。
 
どこかに悪の所在を置いて、そこに話題を集中させ、攻撃するのは、私たち人間が普通のように行っていることであり、そうすることによって、自分自身のなかにある「善」というものを確認していくことを、私たちは何の疑いなく行っています。そういうときに、私たちは知らず知らずの間に「善人」となっているのだと。
 
しかし、今日あえて思わされるのは、誰かが100%善人の側に立って悪人を定めて、その悪を追求し、断罪することが本当に「善」なのだろうかということです。私が言いたいのは、悪をうやむやにし、無きものにしようということではありません。悪は悪として認識し、その悪が糾されていくいくことこそ、大切なことだと思っていることに間違いありません。ただ、私のなかにも悪というものが十分に存在しているのであって、悪というものが誰のうちにも存在していて、その悪の連鎖がこの世の中のさまざまな弊害を生んでいるのだということを言いたいのです。
 
神が善人にも悪人にも太陽の光を与え、恵みの雨を与えてくださるというイエスによる言葉が何を意味するのか。私は今一度黙想させられました。人間が本当に自分自身の悪を理解できるのは、絶対的な「善」に自分自身が守られていると実感できたときなのではないだろうか。この善の存在を、私たちがいかにゆがみなく受け取ることができるかというところに、悪の連鎖を断ち切ることのできる大きなカギがあるのだと感じさせられます。善とは救い主イエスの生き方そのものです。一見すると十字架の死によって失敗したように見えても、実はそうではない。私たちのために自分の命をかけて大切な「善」というものを守り通してくださったのだと。まさに陽の光、恵みの雨なのだと。
 
自分自身のなかにも明らかに存在している悪に、イエスの善が降り注ぐ。この認識こそ、悪の存在を自分自身の出来事として受け止めて、善悪を明らかにしてくださる神の思いに、自分の心を向けることができる。そして、目を向けるべきところにこそ正しい認識をもって目を向けることができる。そんな思いをもって、今日も過ごしてまいりたいと思いました。そのような世界が、私たちを平和へと導いてくださいますように。お祈りいたします。

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