24/07/2022

2022.7.24 #日々の聖句 #ローズンゲン 聖書のことば

くじによって選ばれた本日の旧約聖書のことば
詩編46編5~6節より
川とその流れは神の都に
いと高き方の聖なる住まいに喜びを与える。
神はその中におられ、都が揺らぐことはない。
 
旧約聖書に応じて選ばれた本日の新約聖書のことば
ヨハネの黙示録21章3節より
見よ、神の幕屋が人と共にあり、神が人と共に住み、人は神の民となる。神自ら人と共にいて、その神となる。

『聖書 聖書協会共同訳』より引用・利用
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人と人とのあいだにあるもの。
 
少々言葉遊びになるかもしれませんが、人(ヒト)のことを、私たちは「人間(にんげん)」と呼びます。なぜ「間」という文字が使われているのだろうか。知らなかったので調べてみました。
 
そうしますと、もともと仏教言語であるサンスクリット語からきた言葉で、もともと人間とは「世の中」を示すものだったのだそうです。人と人との間にあるもの、それは世の中である。わかりやすい表現です。その言葉がヒトそのものを現わす言葉として用いられるようになったのは、江戸時代以降なのだそうです。
 
その一方で、今日の聖書の言葉があらわす「人と人との間にあるもの」は、聖書が示す基本的な考え方であることがわかります。人と人のあいだにあるもの、それは私たちの神であると、聖書は私たちに知らせています。
 
つまり「神がおられる」というのは、神が独立した存在として私たちの意識の外にいるのではなく、私たちが会いに行かなければ決して会えないような存在でもなく、つねに私たち人と人とのあいだに共におられる方。私たちに水の流れをよどむことなく与えてくださり、その水の流れには、神の喜びというものが余すところなく私たち一人ひとりに与えられることで、世の中が神の喜びで満たされるような社会のなかに、私たち「人間」としての生きる意味があるのだと。
 
今日の旧約聖書では、その様子を「都」という言葉で表現しています。都とは私たちの生活の場であり、政治によって立てられる場でもあります。いわゆる世の中そのものなわけですが、そのような世の中は何によって建てられることが、本当の意味での平和なのか。そんなことを思わされます。
 
政治は侵略の材料として、神を利用し続けた歴史があります。神を自分自身の思うがままに利用するために「宗教」が手段として用いられました。宗教が人のあいだに介在するとき、考えなければならないこと。宗教が本当に人のあいだに立って、この世の中を平和なものへと導くのだろうか。これを、決して他人事ではなく、自分自身の出来事として向き合いたいのです。
 
それは、宗教そのものを否定することにはつながりません。世の中にある宗教が、本当に神の喜びに資する営みを、私たちは神の御声に聞きながら、そのことを受け止めようとしているかどうか。これは大切な黙想なのだとつくづく思わされるのです。
 
カルト宗教というものが人を苦しめ、それが政治と関わることによって見えざる支配へとつながっていくならば、それはもはや、人と人とのあいだに坐するべきものではないでしょう。私たちのあいだに立たれるのは、ただ皆にとっての平和の神に他ならない。今日の聖書の言葉は、そんなことを私に迫らせてくれているのだと受け止めました。
 
今日は主の日、世界中の教会や集会で神の喜びが語られることを心から願いつつ、私たちのあいだに神がともにおられることを、喜ぶ一日となりますように。お祈りいたします。

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