30/07/2022

2022.7.30 #日々の聖句 #ローズンゲン 聖書のことば

くじによって選ばれた本日の旧約聖書のことば
ヨシュア記24章24節より
私たちは私たちの神、主に仕え、その声に聞き従います。
 
旧約聖書に応じて選ばれた本日の新約聖書のことば
ヨハネによる福音書18章37節
イエスはピラトにお答えになった:
私は、真理について証しをするために生まれ、そのために世に来た。真理から出た者は皆、私の声を聞く。
『聖書 聖書協会共同訳』より引用・利用
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今日の旧約聖書と新約聖書を結ぶテーマは「聴従」であると受け止めました。そのことを黙想したいと思います。
 
聴従。それは神の声に聴き従うことです。聖書には幾度となくこの言葉が告げられ、語られ、私たちに期待されていることとして描かれていることを、私たちはよく知っています。
 
聖書の言葉に聴き従うこと=神に聴き従うことであると私たちは受け入れて、聖書の言葉に耳と心を傾けるよう促されることと思います。しかし、ここでもう一度考えたいのは、聖書の言葉に聴き従うとは「どのような聴き従いかたをすることなのだろうか」ということです。
 
聖書の言葉をその文字通りに受け入れるという言葉をよく耳にします。神の言葉をその言葉のままに受け取るというのです。そして、それに人間の解釈を加えることによって、神の言葉を曲げたり変容したりすることがあってはならないということも耳にすることがあります。それが神の言葉に聴き従うことなのだと。
 
しかし、私はこの言葉がもしそのまま運用されるとするならば、それはとても危険なことであると感じています。聖書の言葉を受け入れ、その言葉に従う際に、私たちは誰でも、多少なりとも、その言葉を「解釈している」ことを、決して忘れてはなりません。解釈のない聖書の読みなど、絶対に存在しないのです。
 
聖書の言葉をいただく際に必要なのは、神の側に立った「黙想」であると私は受け止めています。神の側に立った黙想とは、与えられた言葉を通して、神は、イエスはどのようなことを意図され、私たちに告げられたのだろうかということを、じっくりと考えることです。
 
私たち人間だって、交わされる言葉をそのまま受け取るわけではありません。そのまま受け取ることによって、それが相互理解を阻み、トラブルの原因になることはいくらでもあります。言葉に示された意味を問うことで、相互理解への道が開けてくるのではないでしょうか。
 
ましてや、語られた言葉の意味というものを問うことなく、私たちの限界ある知力や感情で、神の語られることを100%理解できるなど、到底無理なことなのだと思うのです。その限界のなかで、言葉の意味を自分の願望に引き寄せるのではなく、神に聴き続けていく営みこそ、神の言葉を神の言葉として受け入れるために、無くてはならないものなのだと。
 
神の言葉を我田引水のように利用する生き方ではなく、神が私たちをどのように取り扱われ、真理を人生のすべてとされた救い主イエスを遣わすほどに私たちを愛された神が、私たちにその愛をもって何を期待され、どのように生きることを望まれておられるか。そんなことを深く黙想する御言葉の受け入れ方を、今日も生活の柱に据えさせてもらいたい。そんなことを思わされました。
 
一週間も今日で最終日。明日の主の日に向かう私たち一人ひとりが、神の言葉によって整えられ、新しい一日を踏み出すことができますように。お祈りいたします。

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