15/07/2022

2022.7.15 #日々の聖句 #ローズンゲン 聖書のことば

くじによって選ばれた本日の旧約聖書のことば
詩編85編10~11節
救いは主を畏れる者に近く
慈しみとまことは出会い
義と平和が口づけする。
 
旧約聖書に応じて選ばれた本日の新約聖書のことば
ローマの信徒への手紙5章1節
このように、私たちは信仰によって義とされたのだから、私たちの主イエス・キリストによって神との間に平和を得ています。
『聖書 聖書協会共同訳』より引用・利用
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義と平和が口づけする。
 
今日の旧約聖書にうたわれたこの言葉に、深い感銘を覚えました。そうなんだ!「義」と「平和」は口づけするほどに、親愛の念がこもったものなのだと。このふたつがセットにならない限り、義も、そして平和も真の意味での義と平和にはなり得ないのだと。そのように強く感じさせられたのです。
 
私たちのうちには誰でも、正義を貫こうとする心があるのは、自覚するところだと思います。ただ、自分なりの正義を貫いても、それが本当に私たちのあいだに平和を生むことになっているだろうか。私たちはじっくりとそのことを考える必要があるのだと思うのです。
 
正義を貫くのには、それなりに大義名分を必要とします。そのために宗教が用いられてきたというのは歴史の常です。特に、戦争を遂行し、それを正当化するために宗教がたびたび用いられ、政治による支配を正当化するためにも神が用いられたというのが歴史の常です。
 
それで本当に誰もが幸福になれるような世界が生まれれば良いのですが、そのほとんどが人の犠牲をともなうものであったのを、私たちは決して見逃すことができません。人間の持つ正義というものが、ときに危険であやしいものであることを、如実に知らせているのだと。私たちはそのことをどれだけ自分自身のこととして認められるだろうか。そんなことを自分のこととして思わされます。
 
義と平和が口づけするとき、そこには救いがあり、慈愛と真実が出会うときとなる。この詩が歌われたとき、その歌は神に向けられたものでした。私たちに必要なのは、強いようで実は脆弱な人間の正義ではなく、神が私たちに示してくださる正しさなのだと。
 
その神の正しさは、すべてイエス・キリストに示された。今日の新約聖書の言葉が伝えるメッセージです。イエスの生き方はまさに自己犠牲に徹底するものでした。人を犠牲にするのではなく、自分を犠牲にすることで神の義と平和が口づけできるように、すべてを整えてくださった。それがイエスでした。
 
私たちは信仰によって義とされた、と手紙の筆者であるパウロはつづりました。ここで言う信仰は、私たちの信仰の行為以前に、信じることのできる「実体であるイエス」が、私たちに与えられたそのものが「信仰の本質」であるということです。自分なりの正義、自分なりの信仰を貫くのではなく、イエスが私たちに与えられた生涯のすべてが、私たち一人ひとりを義と平和の口づけに、導いてくださるのだと。
 
では私は、この言葉にどう応えよう。イエスの生き方を心から理解しようとする心を、神に養ってもらおうと心から願いたい。その思いを日々握りしめたいからこそ、今日も聖書の言葉に耳と心を傾けようと、そのように黙想しました。平和を叫びつつも平和とは逆行するような出来事が世界を取り囲むなかにあって、神が与えてくださる慈愛と真実、義と平和が、私たちの生きるための柱となることができますように。心からお祈りいたします。

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