18/07/2022

2022.7.18 #日々の聖句 #ローズンゲン 聖書のことば

くじによって選ばれた本日の旧約聖書のことば
エレミヤ書8章21~22節より
エレミヤの言葉:
娘であるわが民の傷のゆえに
私も傷つき、嘆き、恐怖が私を締めつけた。
ギルアドには香油がないのか。
そこには医者がいないのか。
 
旧約聖書に応じて選ばれた本日の新約聖書のことば
ルカによる福音書10章8~9節
イエスは弟子たちに言われた:
どの町に入っても、迎え入れられたら、差し出される物を食べなさい。
そして、その町の病人を癒やし、『神の国はあなたがたに近づいた』と言いなさい。

『聖書 聖書協会共同訳』より引用・利用
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この傷を、いったい誰が癒してくれるのか?
 
人が傷ついている姿を見て、いたたまれなくなくような感覚がよみがえってくる、今日の旧約聖書の言葉です。しかも、傷ついている当人が、自分は傷ついているという感覚すら覚えていないとき、それを見る者としては、なおのことつらい気持ちにさせられる。まさに、エレミヤが嘆きと悲しみを抱えながら、その傷にすら気づけないイスラエルの民を見ているときの心境そのものです。
 
ここのところ連日ですが、私はカルト宗教によって傷ついている方々のことを思わずにはいられません。しかし、その姿はご当人の心がマインド・コントロールによって、カルト的なものに支配されてしまっているため、傷を受けていることに無感覚になってしまっているのです。どうしたら、この方々が「痛い!」と叫び声をあげることができるのだろうか。痛さを感じたときに、それは本人が癒しを求めるとき。それすなわち、回復への第一歩を踏むことできるときなのだと。ただ、無感覚であるときには、その痛みにすら気づけないから、一歩も前進できない。そんなもどかしさを援助者として思うことが多々あります。
 
そこに傷をいやす膏薬はないのか。その治療にあたる医者はいないのかと、エレミヤは人の傷を自分の傷のように痛ませながら叫びます。たとえ塗り薬を塗ってくれる医者がいたとしても、それを求めることすらできないのか。治療のすべを知っている援助者のもどかしさというものが伝わってきます。それだけ、人が癒されるというのは厳しく、遠い道のりであることを痛感させられます。
 
私たちは知っています。その人のなかにある痛みを気づかせ、治療へと向かい、その治療を根本的になし、癒してくださるのは神の業であるということを。しかし、その神を本当の意味で傷ついた必要が必要とするまで、私たちは何ができるのだろうか。それは十分に黙想することのできる課題なのだと感じずにはいられません。
 
イエスは、弟子たちに言われました。『神の国は近づいた』と言いなさいと。神の世界、その価値観が私たち一人ひとりのもとに迫ってくるのです。しかも、それは食卓の交わりのなかに、そのもてなしのなかに表れるのだと、イエスは弟子たちに勧めます。
 
食卓の交わりには、リラックスした環境が生まれ、もてなしもてなされる関係には、親愛の情が生まれます。この環境と関係性の真ん中に、イエスが立たれます。まるで傷をいやすソフトな手がその傷口をやさしく覆い、それで傷口に触れられることの痛みを感じたとしても、その痛みゆえに不安を抱くことはないのでしょう。こうして、痛みを感じてもそれが癒しにつながることを覚えるときに、そこには豊かな回復が待っていることにはじめて気づくことができる。まさに、マインド・コントロールの鎖が解けはじめて解放へと向かうことが可能になるのだと。
 
癒しというものは、人間の努力だけで解決できるものではない。神がもたらす癒しというものは、決して荒療治的なものではないことを、今日の聖書の言葉を通して感じ取りたいと思うのです。それが、イエスを救い主とあがめる私たちが持つことのできる希望なのだと信じつつ。
 
世の中にある数あまたの傷が、本当の意味での癒しに向かいますように。心からお祈りいたします。

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