08/07/2022

2022.7.8 #日々の聖句 #ローズンゲン 聖書のことば

くじによって選ばれた本日の旧約聖書のことば
エレミヤ書21章14節より
私はあなたがたの業が結ぶ実に従って
あなたがたを罰する――主の仰せ。
 
旧約聖書に応じて選ばれた本日の新約聖書のことば
ガラテヤの信徒への手紙6章9節
たゆまず善を行いましょう。倦むことなく励んでいれば、時が来て、刈り取ることになります。
『聖書 聖書協会共同訳』より引用・利用
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今日の聖書の言葉から、新約聖書・ガラテヤの信徒への手紙にある「倦むことなく励んでいれば」という言葉に、黙想の思いを寄せてみたいと思います。
 
倦むことなく。この言葉の意味を調べてみますと「いやになってしまうことなく」「あきらめず」「疲れてしまうことなく」という意味があります。ですから、その後に続く「励んでいれば」という言葉が、どのような意味で語られているかに、注目することができると感じさせられます。
 
私たちは「励む」という言葉にどのような意味を抱くでしょうか。一生懸命頑張る、せっせと働くというような意味合いを、励むという言葉に込めていないでしょうか。一所懸命なさまのことを、励むともし感じているのであれば、そのことで疲れ果て、あきらめてしまうことのない程度にという意味で「倦むことなく」という言葉が用いられているのは、大変興味深いと言えるでしょう。
 
つまり、頑張りすぎてしまうというのは、自分の力に頼りすぎている結果なのではないか。私はそのように感じるのです。私は自分自身のことで精いっぱいになればなるほど、前のめりになってしまう傾向があると、私自身を振り返って痛感させられることがあります。そして、一生懸命やっているのに成果が表れないと、本当に疲れ果ててしまって、なにもかもやる気が失せてしまうのです。
 
しかし、倦むことなく励んでいるならばという言葉の奥深いところには、私が何によって生きるのかという本心が明らかにされます。私たちに善いものを与え続けてくださる神の御業を受け取り続けることで自分自身を整える生き方か、自分で善の基準を決めてその善を保とうと歯を食いしばって頑張ろうとする生き方か。似ているようで、この二者のあいだには、大きな隔たりがあると私は思うのです。
 
倦むことなく、と書かれている言葉に先立って、この手紙は「たゆまず善を行いましょう」とパウロは綴っています。たゆまずとはあきらめずという意味ですから、倦むことなくという言葉と同義であることがわかります。あきらめることなく神が与えられる善をいただき続けることが、すなわち気負うことなく、神の助けによって、神の善を受け取り、それを認識したり識別したり、自分自身を確かめ吟味しながら、あきらめることなく、疲れてしまうことなく、自分自身の生き方としていく。そこに、肩ひじ張らない生き方、神が私たちを慰め励ましながら共に歩んでくださる姿というものを、見させられているような気がするのです。
 
私たちが、そのような生き方を営んだ結果、最終的に神の恵みというものを刈り取ることができるのだ。そのように神の言葉は語ります。ここの聖書の言葉はしばしば「蒔いたものを刈り取る」という言葉から、どうしても消極的・自業自得的なイメージがつきまとうものだと私は思っている一面があることに、あらためて気づかされました。悪いことをすれば、それなりの報いが降りかかってくるのだと。
 
しかし、倦むことなく・疲れてしまうことなくという言葉に、自分自身の姿を振り返ることができ、また徒労してしまわないような生き方とはなにかという点で、ホッとさせられる言葉なんだ。そのように思わされたのです。
 
今日も、前のめりになることなく、気負うことなく、神が私たちに与えてくださった数々の出来事を指折り数えながら、一日を歩んでまいりたいと思います。そのような連鎖こそ、この世の中に注がれる神の平和があらわれることを期待して、今日というときを過ごしていくことができますように。お祈りいたします。

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