12/07/2022

2022.7.12 #日々の聖句 #ローズンゲン 聖書のことば

くじによって選ばれた本日の旧約聖書のことば
ハバクク書3章19節より
主はわが力。
 
旧約聖書に応じて選ばれた本日の新約聖書のことば
テモテへの手紙一4章10節より
私たちが労苦し、闘っているのは、生ける神に望みを置いているからです。
『聖書 聖書協会共同訳』より引用・利用
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今日の旧約聖書の言葉は、非常にシンプルなかたちで「私にとって神は、生きるための力である」ということを告白する、預言者ハバククの言葉を私たちに知らせています。
 
ここでハバククは、「主」という神の名前をあえて呼んでいます。主とは神の固有の名前であり、「私はいる」という意味を明らかにすることによって、私に常にともなってくださる神がおられるからこそ、私は生きる力というものを、神からいただくことができているのだということを告白している、というわけです。
 
預言者ハバククが生きた時代、国には大きな不安がありました。外からの脅威、神が私たちとともにいてくださるということに、周りからの不安ゆえに信頼を寄せるに足らない人々の疑いがありました。本当に神は私たちを助けてくださるのだろうかと。神が私たちとともにいてくださるなどというのは、実は幻想なのではないかと。
 
私たちの生活が守られているという実感は、実際に目に見えるものを通して表れてくるのは、私たちの誰もが知っていることです。先日行われた参議院議員選挙でも、そのことが争点となったわけです。私たちの生活、特に経済的な生活が豊かになるために何をすべきか、そのために誰を選ぶべきか。そこには生活の安定というものを求める人々の思い、願いというものが浮き彫りにされていくわけです。
 
そのような思いは、現代でもハバククの時代でも、人々のあいだではなんも変わることはありません。では、誰もが安心安全な生活が保証されるために、何を私たちは求めることができるのだろうか。「主はわが力」という今日の聖書の言葉を通して、黙想させられます。
 
そんななかで、今日の新約聖書の言葉である「私たちが労苦し、闘っているのは」というひと言は、ただ黙っているだけでは何も起きないのだということを思い起こさせるものなのだと、強く感じさせられたのです。
 
神の力を自分の人生に無くてならないものととらえて生きるのは、実にチャレンジなのだと思わされます。それは自分の思うときに、自分の思うように感じとることのできるものではないからです。経済の発展といったような、目に見えやすいものであるとは限らないからです。だから、昔の人も「本当に神は私の力となってくださるのだろうか」という疑いが生じたのです。これは、私たち人間のまぎれもない正直な傾向なのでしょう。
 
そのようななかで、生きるに労苦し、内外の様々な苦痛と闘わなければならない。しかし、必ず神は、ベストのタイミングをもって、ベストと思われる答えを私たちに与えてくださるからこそ、私たちの希望とすることができる。ハバククも、若いテモテに対して手紙で励ましたパウロも、そのことを自分自身に与えられた確信として、告白することができたのだと。
 
この告白に励まされながら、今日という一日を生きてまいりたいと願います。そのような願いを必ずかなえてくださる神が、今日も私たちとともにありますように。お祈りいたします。

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