09/07/2022

2022.7.9 #日々の聖句 #ローズンゲン 聖書のことば

くじによって選ばれた本日の旧約聖書のことば
イザヤ書48章21節より
主が彼らに乾いた地を行かせたときも
彼らは渇かなかった。
主は彼らのために岩から水を流れ出させた。
 
旧約聖書に応じて選ばれた本日の新約聖書のことば
ヨハネによる福音書7章37節より
イエスは言われた。「渇いている人は誰でも、私のもとに来て飲みなさい」。
『聖書 聖書協会共同訳』より引用・利用
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モーセをリーダーとするイスラエルの民がエジプトの地を脱出し、神が指し示された土地へ向かうときのことでした。本来ならば、彼らはもっと早く約束の土地へたどり着くことができたかもしれません。しかし、行けども行けども、その土地に到着することはできませんでした。実に40年という長い期間にわたって、彼らは流浪を体験することになりました。
 
あてもなく、たださまよい続けるイスラエルの民たちは、ときに疲れ果て、その疲れからくる不平不満をしばしばもらし、つぶやきました。神が私たちを守ってくれるのではなかったのか。それなのに、どうしてこんな苦しみを経験しなければならないのだ。彼らは喉が渇くだけではなく、その魂も渇ききっていたというのです。
 
しかし、神は民たちを決して見捨てることはありませんでした。神がいたずらに民に苦しみを与えたのではありません。人間とは「何を必要として生きる存在なのか」という問いを、自分自身に問わせ、そのたびごとに、神の助けを経験することによってその答えを見つけていく。それが流浪の民が40年のあいだに気づき、経験してきた歴史でした。
 
神が岩の割れ目から水をほとばしらせてくださったおかげで、彼らは渇くことはなかった。不毛な土地でさまよったとしてもです。この言葉に黙想の思いを寄せました。特に昨日は、私たちの誰もが、むなしい渇きをそれぞれに経験したのではないか。私もそのひとりでした。人が人をあやめることのむなしさとは、まさに渇きの極みなのではないかと、私は思えてならないのです。
 
そんなときに、私は何によってその渇きを癒すことができるのだろうか。神は私たちが渇いたままでいることをお望みではない。いのちの水を私たちに注ぎ、与えてくださるではないか。神の語られる言葉と、言葉が決して空しいものとならないように示してくださった御業を、今一度、じっくりと味わってみたい。そんな思いにさせられました。
 
救い主イエスは言います。渇いているものは誰でも、私のもとに来なさいと。イエスの言葉と行いに、私は心の渇きの癒しを得たい。惜しみなく水の流れを与えてくださるイエスが、今日も私とともにいてくださった。そんなことを指折り数えることのできるような生活の日々でありたい。そんなことを思えてならないのです。
 
今日は私個人の事情で、夕方の配信となってしまいました。だからこそ、一日を振り返ることのできる聖書の言葉が与えられたことに感謝しました。そして、明日の主の日に向けて備えしてまいりたいと思います。今日の残された時間が、皆さんにとって渇きを癒し、うるおすことのできる素敵なときとなりますように。お祈りいたします。

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