29/07/2022

2022.7.29 #日々の聖句 #ローズンゲン 聖書のことば

くじによって選ばれた本日の旧約聖書のことば
箴言4章18節
正しき者の行く末は輝き出る光のようだ。
進むほどに光を増し、真昼の輝きとなる。
 
旧約聖書に応じて選ばれた本日の新約聖書のことば
ヨハネの手紙一3章2節
愛する人たち、私たちは今すでに神の子どもですが、私たちがどのようになるかは、まだ現されていません。しかし、そのことが現されるとき、私たちが神に似たものとなることは知っています。神をありのままに見るからです。
『聖書 聖書協会共同訳』より引用・利用
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神をありのままに見る。
 
今日の新約聖書の言葉は、私たちの見る「目」がどのようなものかについて、深い洞察と黙想を与えるものだと私は受け止めました。私は何を見、見つめているのだろうか。その見つめる先にあるものとは、私が自分の生活において、本当に見るべきものなのだろうか。そんなことを思わされました。
 
今日の聖書の言葉は、旧約も新約も、その見る先が「神」であることを示しています。私たちは祈りや賛美、聖書の言葉を通して、神を見るという営みを行っていることと思います。ただ、その神とはどのような神なのか。聖書に記された神と言えど、その神は本当に私たちを「神に似たもの」として創造された神なのだろうか。そんなことを思わされるのです。
 
今日の旧約聖書の言葉には「正しい者の行く末は・・・」と書かれています。私たちは聖書という本を、道徳の教科書のように読むこともできるかもしれません。正しい者になるために聖書を読む。それも間違いではないかもしれません。しかし、その正しさは私たち自身に帰属するものなのでしょうか。決してそうではないと私は考えています。
 
私たちは、ただ神が正しい御方であるというその一点において、その正しさゆえに私たち一人ひとりが生きていくことができるのだという深い認識こそ、この箴言の言葉に記されたような「正しい者」の姿なのではないだろうか。常に神との深い関わりの中で、自分自身の「ありのままの姿」を正当化し、自分に引き寄せて都合よく解釈する生き方ではなく、私たちのありのままの姿を愛し、大切にしてくださる御方が、私たちの心と思い、日々の営みに光と投じてくださるから、私たちは試行錯誤しながら神とともに歩む幸いに導かれている。そんな風に思うのです。
 
誤解を恐れず申し上げれば、神は失敗することにおいても、大胆かつ完璧にそれをこなす御方であると私は思います。神は後悔します。二度とそのようなことはするまいと私たち人間に語りかけ、誓いを立ててくださる方です。私たちは神の似姿としてつくられた存在であるならば、ありのままに自分自身を問うこともできれば、方向転換をして歩むこともできる存在なのだと感じます。もちろん、そのモデルは神であることを忘れずにいれば。。
 
神をありのままに見るとはそういうことなのかなと、そのような黙想に至りました。私たちの生きざまをただただ見守り、しかし、行くべき道に光を投じられる。その光によって今日の一日を歩みたいと願わされます。今日も一日がそのような光によって平和が訪れますように。お祈りいたします。

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