27/07/2022

2022.7.27 #日々の聖句 #ローズンゲン 聖書のことば

くじによって選ばれた本日の旧約聖書のことば
詩編136編3~4節より
主の中の主に感謝せよ。
ただひとり大いなる奇しき業を行う方に。慈しみはとこしえに。
 
旧約聖書に応じて選ばれた本日の新約聖書のことば
ルカによる福音書17章15~16節
その中の一人は、自分が癒やされたのを知って、大声で神を崇めながら戻って来た。
そして、イエスの足元にひれ伏して感謝した。
『聖書 聖書協会共同訳』より引用・利用
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今日の旧約・新約聖書の言葉を貫くテーマは「感謝」です。あらためて自分自身のうちにある感謝の思いについて、黙想を深めてみたいと思いました。
 
今日の新約聖書で日本語に訳されている「感謝」は、原語であるギリシア語では「エウカリステオー(εὐχαριστέω)」という言葉が用いられています。そして、この言葉が聖書にあるとき、それは神に向けられる感謝を示しています。今日の新約聖書の言葉では「既定の病(それはしばしば皮膚の疾患として取り上げられています)」がイエスによって癒された一人の人物が、自分の病が癒されたことを知って、喜んでイエスのもとへ帰り、感謝の言葉をイエスに向けました。結果として、イエスへの感謝は神への感謝であったと言って間違いないでしょう。
 
この聖書箇所では、本来イエスによって病が癒されたのは10人であったことが知られています。しかし、イエスに感謝の言葉を告げたのは、このひとり以外誰もいなかったようです。そして、イエスの言葉によると、このひとりの人物は「サマリア人」であったことが分かります。イエスはこのサマリア人を「外国人」と呼んでいます。当時、サマリア人は救いの外にあると、神の民を自認するユダヤ人によって見なされていました。
 
つまり、神による救いというものを「当たり前」のように受け止めていたユダヤ人から、救いの外にあるとみなされていたサマリア人が、実際にイエスによって病が癒されたという出来事は、その当人にとっては「当たり前ではないことが自分に及んだ」ことで、大きな喜びがあって、その喜びが感謝となり、イエスのもとに戻ってその思いを告白した、ということです。
 
2年前、新型コロナウイルスの影響によって、教会活動の制限が余儀なくされたとき、当たり前と思っていたことが、実は当たり前ではなかったのだ。そのひとつひとつが感謝して受け入れるべきものであったことに、私たちは気づかされたのではないかと思います。神を礼拝する一回の出来事が、神に向けられる感謝の思いで満たされたあの記憶は、私自身決して消え去ることなく、私の心にしっかりと刻み込まれているのを感じます。
 
しかし、私はこうも思うのです。人間、感謝や感動の思いは徐々に薄れてしまう存在だということをです。誤解を恐れず申し上げれば、私もいつかまた「あのときの感動・感謝」を忘れてしまうような時がやってくるのだろうと。
 
イエスによって癒された10人のうちひとりだけがイエスに感謝の思いを表したという出来事は、まるで私たちのそのような有様であるような気がしてならないのです。10回感謝できることを、9回忘れてしまう、当たり前のように思ってしまうのが私たちの現実なのではないかと。しかし、1回くらいは何かを取り戻すように、感動し神に感謝する自分自身を取り戻すことができるのではないかと。私は10人のうちの9人であり、また神によって残りのひとりとさせてもらっているのだと。だとしたら、それは本当に感謝なことなのだと思うのです。
 
本当はいつも感謝を忘れない者でありたい。しかし、私自身のうちにある気まぐれな思いやムラというものがそうさせない。そんな私にでも、神は感謝の思いを思い起こさせてくださることを、私は今日の聖書の言葉からそれこそ感謝をもって受け入れたいと願わされます。それは、決して当たり前のことではないのだということをです。
 
私たちにとってはささいないことかもしれない。しかし、神はそのたった一回の出来事にも、全身全霊をもって働きかけてくださる。それが今日の旧約聖書でいわれる「大いなる奇しき業」なのだと。この業が、私たち一人ひとりに与えられるとき、感謝の思いがこの世界を満たし、その満たされた環境のなかで味わえる幸いが、今日の一日にありますように。お祈りいたします。

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