28/07/2022

2022.7.28 #日々の聖句 #ローズンゲン 聖書のことば

くじによって選ばれた本日の旧約聖書のことば
ヨナ書2章9節
空しい偶像に頼る者たちは
慈しみの心を捨てている。
 
旧約聖書に応じて選ばれた本日の新約聖書のことば
ヨハネの手紙一2章17節
世も、世の欲も、過ぎ去ります。しかし、神の御心を行う者は、永遠にとどまります。
『聖書 聖書協会共同訳』より引用・利用
******
 
空しい偶像。今日はこの言葉に注目しながら黙想したいと思います。
 
私たちは「偶像」に対してどのようなイメージを抱いているでしょうか。偶像と聞くと、仏像であるとかそのような目に見える神仏をかたちにしたものを想像するかもしれません。しかし、偶像とは、単なる有形のものに限定しない、私たちの心のなかにしっかりと根付いているもの。そういうものを含めて偶像という言葉で表現できるものなのではないかと思わされるのです。
 
ですから「偶像を避けなさい」という、しばしば聖書に記されている文言に出会うとき、他宗教の何かを避けていればそれで良いということでは、この聖書の言葉の意味するところを形式的にでしか理解していない。私はそのように考えています。私たちの心のなかにこそ、実にあらゆるものを偶像化して生きている。これが私たちの偽らざる現実なのだと。
 
今日の旧約聖書の言葉では「空しい偶像」と表現されていますが、そもそも「偶像」と日本語に訳されている言葉そのものに「空しさ・空虚」という意味が含まれているのは、とても興味深いことと言えます。そのようなときに、こんなことを考えます。私が大切にしているものとは一体何か。その大切にしているものは、本当に大切にするだけの価値のあるものなのだろうか。大切にしているものを握りしめていることで、空しさというものが自分自身を襲っていることはないだろうか、と。
 
旧約聖書の言葉に連動する今日の新約聖書の言葉では「世の欲」という言葉で、そのことを表現しています。偶像とはすなわち、私たちの誰もが持っているさまざまな欲求であると。欲求を追い求めることで、慈しみの心を忘れてしまうとはどういうことだろうか。そんなことを思うときに、愛情に飢え、常に自分が愛情で満たされるために承認されることを欲求し続け、いろいろ手を尽くしても愛情が満たされることなく、空しい思いにさせられる。私も幾たびも経験したことでした。
 
そのようなときに「慈しみの心」が捨てられていると聖書には記されているのですが、では、慈しみの心とは何か。それは神の愛そのものであると、私は受け止めたいと思います。神が私たちを大切に守り続けてくださる慈しみは、ときに私たちには理解しがたい、受け入れたくても実感がわかないことがあったりします。そんなときに、より見えるかたちで、わかる形で、人にその愛情を求める、そのために自分自身がとことん尽くす。しかし、求めたり尽くしたりしたとて、経験するのはただ空しさのみ。神を信じる環境のなかでも、こういうことは往々にして起こることなのではないかと感じさせられるのです。
 
今日の新約聖書の言葉で、神の御心を行う者は永遠にとどまるとあります。神の慈しみを知るための、その御心を聖書の言葉と聖霊の助けによって慰められ、励まされながら、その空しさから解放されることを願いつつ、今日も聖書の言葉に聴き続けたい。それが、私の黙想です。なにやらまとまりのつかない文章になってしまいましたが、聖書の言葉に示された神の慈しみというものを大切にして、今日の一日を歩みたいと願わされました。そのような連鎖が、空しさの渦からすこしでも解放されますように。お祈りいたします。

0 件のコメント:

コメントを投稿