05/07/2022

2022.7.5 #日々の聖句 #ローズンゲン 聖書のことば

くじによって選ばれた本日の旧約聖書のことば
創世記15章6節
アブラムは主を信じた。主はそれを彼の義と認められた。
 
旧約聖書に応じて選ばれた本日の新約聖書のことば
ガラテヤの信徒への手紙3章7節
ですから、信仰によって生きる人々こそアブラハムの子孫であるとわきまえなさい。
『聖書 聖書協会共同訳』より引用・利用
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今日の旧約聖書の言葉は、のちに新約聖書の言葉にも受け継がれました。使徒パウロは言います。

聖書は何と言っていますか。「アブラハムは神を信じた。それが彼の義と認められた」とあります。
(新約聖書・ローマの信徒への手紙4章3節)
 
つまり、私たちが「信仰」について考えるとき、そのモデルとなる信仰者を聖書から多く見つけることができますが、アブラハムはその代表的な信仰者と言ってもよいでしょう。では、私たちはアブラハムの何から信仰というものを知ることができるのでしょうか。
 
アブラム(アブラハム)は主なる神を信じた。そのことを神はアブラハムの「義」と認められた、とあります。プロテスタント教会の基本理念のひとつである「信仰義認」は、ここから生まれた言葉であるといって間違いありません。
 
ただ、信仰義認でしばしばとらえ違いしてしまうのは、神を信じるということは「私自身」の正しさが証明されることでは決してない、ということです。神を信じたから私の正しさが認められた、ということではありません。
 
神がアブラハムを、神御自身が正しさをもって祝福し、導き、取り扱ってくださる。この神の正しさをアブラハムは信じたのです。自分が正しいのではなく、神が正しい御方であることを、自分の生き方の中心に据えたからこそ、アブラハムは神の正しさによってその生き方が、神に認められたということなのだと。
 
私たちは、自分が正しいと思ったことに従って毎日言葉をつむぎ、行動しています。しかし、その正しさはどこに由来する者なのか。そこに、じっくりと自分自身を確かめながら歩んでいくということが、アブラハムの信仰者としての人生に学ぶことができるのだと思います。
 
アブラハムはその生涯のなかで、100%の成功者として歩みませんでした。むしろ彼の人生は、いわゆる失敗ばかりであったとも言えるでしょう。しかし、アブラハムは失敗や挫折を通して、最終的に見たのは神の正しさでした。神が自分自身を含むこの世界に、ご自分の言葉をもって、その正しさを証しされてこられた。アブラハムは「主なる神の言葉に従って」その人生を歩みました。だから、成功も失敗もすべて、神の眼からすれば義認されるに必要なことだったのだと。
 
今、私たちは神の与えられた言葉の「実質・実体」として、イエス・キリストという救い主を信仰として、神からいただきました。このイエスをもって、私たちはイエスの言葉と行いを心に抱きながら日々の生活を営むことができるのです。これこそ、アブラハムの子孫とされている私たち一人ひとりに期待されていることなのでしょう。「わきまえなさい」という、今日の新約聖書の言葉は、まさにそのことを積極的にとらえることの幸いを、物語っているものと言えるでしょう。
 
どうぞ今日の一日が、神の言葉の中心にあるイエスの私たちに対するまなざしが、私たちの命を活かす土台であることを想いつつ生きることができますように。お祈りいたします。

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