22/07/2022

2022.7.21 #日々の聖句 #ローズンゲン 聖書のことば

くじによって選ばれた本日の旧約聖書のことば
エゼキエル書16章61~63節より
あなたは自分の道を思い起こし、恥じることになる。
私があなたのすべての行いについてあなたのために贖いをするとき、あなたがそれを思い起こして恥じることになる。――主なる神の仰せ。
 
旧約聖書に応じて選ばれた本日の新約聖書のことば
コリントの信徒への手紙二7章10節より
神の御心に適った悲しみは、悔いのない、救いに至る悔い改めを生じさせます。

『聖書 聖書協会共同訳』より引用・利用
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※昨日ブログアップすることができませんでしたので、前日のものですが、遅ればせながら黙想を掲載したいと思います。

「神の御心に適った悲しみ」とはなんでしょうか。現在私が参加している聖書の言葉に聴き、分かち合うグループにおいて、この聖書の言葉が取り上げられました。
 
神の御心とはなんでしょうか。神の御心とは、私たち一人ひとりを祝福することを中心にして、そこから具体的に私たちを取り扱われるために働く神の心のことです。それが愛となり、慈しみとなり、憐れみとなり、時には諭される。それが私たち一人ひとりの心に注がれるときに、では、私たちはどのような感情が起きるのか。そのひとつに「悲しみ」というものがある。新約聖書の言葉は、私たちにそのように語り掛けます。
 
私たちの悲しみのかたちは、実にさまざまです。自分が阻害され、相手にされず、孤独に感じるときも悲しみが生じます。しかし、ここで取り上げられている悲しみとは、そのようなものとは少し趣が異なります。神が私のほうを向いてくださるということに気づけないという悲しみ、神が私を向いてくださるのに、自我が勝ってしまうあまり、私が神に向き合うことができないというときの悲しみであり、その悲しみは自分自身に向けられるというよりは、神に向けられる悲しみのことを指しています。
 
自分自身という殻、壁のなかに閉じこもって、自分自身を慰め、憐れむことよりも、はるかに自分自身の将来をつくり上げる神による慰め、そして憐れみ。それが私をいかに前向きに進ませるものとなるか。そんな思いを込めて手紙を綴った使徒パウロの気持ちというものが、じんじんと伝わってくる。そんな聖書の言葉です。
 
自分自身のなかにある悲しみとはなんだろうか。そんなことを自己吟味しながら、歩んでいくことができれば、必ず私たちに迫りくる神の愛に気づけるときがやってくる。そんなことを心に刻みながら、与えられた日を歩むことができますように。

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