30/03/2022

2022.3.30 #日々の聖句 #ローズンゲン 聖書のことば

くじによって選ばれた本日の旧約聖書のことば
ネヘミヤ記13章2節より
私たちの神はその呪いを祝福に変えてくださった。
 
旧約聖書に応じて選ばれた本日の新約聖書のことば
コリントの信徒への手紙二5章19節
神はキリストにあって世をご自分と和解させ、人々に罪の責任を問うことなく、和解の言葉を私たちに委ねられたのです。
『聖書 聖書協会共同訳』より引用・利用
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呪いを祝福へと変えてくださる神がおられる。
 
「呪う」と「祝う」。とてもよく似た漢字ですが、その意味は真逆であるのは、私たちもよく知っていることです。そして、そのどちらも口を通して発される言葉をもって、呪うこともできるし祝うこともできるというわけです。
 
今日の聖書の言葉を通して、改めて考えさせられたことがあります。呪うも祝うも、私たちの心が問われる話であるということをです。どうして祝うことができるのだろう。どうして呪ってしまうのだろう。、、
 
大抵の場合、呪いは自分自身を中心にして物事を考えたときに、起きてくる感情なのかもしれません。自分がこういう嫌なことをされた、言われた、態度で示された。それに根を持つからこそ、怒りが蓄積された結果、呪いへと発展するというわけです。
 
では、祝うとは何かと言えば、祝いは自分の向こう側にいる相手を中心にして物事を考えたときに、起きてくる感情と言えるでしょう。相手の幸せを見るのが本当に嬉しいからこそ、私たちは祝福の態度を示し、言葉を贈ることができるのだと。
 
今日の旧約聖書の言葉は、私たちの神は呪いを祝いに変えてくださる方であることを、私たちに伝えています。つまり、相手の尊厳までも巻き込んでしまうような自己中心の生き方から、相手の幸せのために自分自身が貢献できるような生き方のモデルを、神自らが人間に対して示されること。これこそ、今日の新約聖書で言われる「和解の言葉」です。
 
結局のところ、和解とは双方の歩み寄りがなければできないと私は思っているのですが、それは、人間がどうしても祝いよりも呪いを選んでしまうからなのであって、神のように、一方に責を追求することなく、相手が自分に近づく前に、ご自身から私たちの方へ近づいてくださる。そして和解の言葉を、祝いの言葉として贈ってくださる。この言葉に、私は深く黙想させられました。
 
神のようにはなれないことは、もちろん承知のうえで、しかし、和解の言葉の喜びに生きる者となりたい。これが、本日私に与えられたチャレンジです。どうか、そのことを祝いの言葉をもって励ましてくださる神が、私を、私たちを支え、ともに歩んでくださいますように祈りつつ、過ごしてまいりたいと思います。

最後に、呪いとか祝いと聞くと、この曲が思い出すので、皆さんへご紹介。
レ・ロマネスクの『祝っていた』です。



どうぞ、皆さんの一日に、神様の祝福が豊かにありますように!

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