詩編91編15節より
主は言われる:
彼が私を呼び求めるとき
私は答えよう。
旧約聖書に応じて選ばれた本日の新約聖書のことば
ローマの信徒への手紙10章12節より同じ主が、すべての人の主であり、ご自分を呼び求めるすべての人を豊かにお恵みになるからです。
『聖書 聖書協会共同訳』より引用・利用
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今日の旧新約聖書を貫くテーマは「呼び求める」と、私は受け止めました。神を呼び求めるならば、神は必ず答えてくださる。必ず私たちを豊かにし、恵みをお与えになると、聖書には記されています。
私たちはこの場合、呼び求めるという言葉をどのように、またどこまでのことを指す言葉なのかを、理解しておくことは大変重要であると思うのです。
昔、自分の人生に悩み、苦しんでいたあるクリスチャンは言いました。「私はこんなに悩んでいて、神に、その悩みから解放してくださいと祈っているのに、神はその悩みを全然取り去ってくださらない。呼び求めているのに、本当に応えてくださるのだろうか。」
私たちがどれだけ主を呼び求めても、思うような答えが返ってこない。私も少なからず経験のあることです。ここで考えさせられます。呼び求めるとは要求することなのかと。もちろん、要求は含まれるでしょう。しかし、要求だけでないと、私は考えています。
ここに、神を呼び求めることの真実というものが、明らかにされているような気がしてならないのです。私たちは、難も知らない相手に対して、自分の願いを込めて呼び求めることはしません。信頼できると分かっているからこそ、また、そう期待できるからこそ、その相手を呼び求めるのではないかと。
そう考えるときに、私たちは神を呼び求める前に、神がどういう御方なのかを知り、神が日々発せられる言葉に、耳と心を傾けているからこそ、はじめて呼び求めることができるのだと思うのです。神の言葉が語られ、聞かれ、理解されるところにこそ、呼び求め、また、神が自分自身を豊かにしてくださることも、理解できるのだと。
先ほど申し上げた、悩みから解放されなかったその方は、いつしか、自分の悩みで必要以上に苦しむことは無くなりました。悩みが消え去ったわけではありません。しかし、その悩みに対して、ご自分の言葉で慰め、励まし、整えてくださる神を、その方は理解することができたとおっしゃっておられました。
どのような答えが返って来るか、たとえ分からなかったとしても、神は私たちが呼び求めることができるように、私たちをご自分の御言葉で導いてくださる。そんなことを希望に、今日の一日を歩むことができますように。お祈りいたします。
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