ヨナ書2章7節より
わが神、主よ
あなたは命を
滅びの穴から引き上げてくださった。
旧約聖書に応じて選ばれた本日の新約聖書のことば
テモテへの手紙二2章19節より神の堅固な土台は揺るぎません。そこには、こう刻まれています。「主はご自分の者たちを知っておられる。」
『聖書 聖書協会共同訳』より引用・利用
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たとえ私たちが神を知らぬとも、神は私たちを知っていてくださる。この場合の知るとは、ちょっと知っているということではなく、すべてを理解してくださるということなのだ。
たとえ人が私の真意を理解してくれなかったとしても、神はすべてを御存知なのだ。私の心のうちも、そして何が、私にとって一番良い道であるかということも。
今日、ふたつの聖書の言葉を通して、真っ先に浮かび上がった思いです。
ふと、こんなことを思い出しました。私の母の言葉です。幼い頃、私は母からこんなことをしばしば言われたのを覚えています。「今、あなたのことを理解してくれなかった人がいたとしても、時間が経てば、必ず理解してくれるようになるよ」と。
私は、いわゆる「普通」というところからは、少しはみ出していた子どもだったのだと、昔のことを思い出しては、そう思うことがあります。親は、私の奇行ぶりを心配して、精神科で検査してもらったほどでした。
そして、私自身も「普通」であることを要求され、同調圧力の受けることによって、社会のなかでまかり通っている「社会常識」なるものを身に付けることができたし、今は、ある程度、その社会通念に従って生きている部分があります。
しかし、それはあくまで、社会を生きるための私のスキルのようなものであって、実際のところは、本当の自分の姿とのギャップに苦しむことがありますし、それがとてつもないストレスを生むことがあります。それが、私の「差し障り」なのです。
だから、誰かから誤解されるときに、それを必死にかき消して、理解してもらいたいという欲求は、人より大きいのだと感じています。それは、これまでの人間関係のなかで、しばしば起こる、私の思いに他なりませんし、このことで、人間関係の齟齬というものも、これまで何度も経験してきました。
しかし、今日の聖書の言葉にもあるように、神はすべて分かっていてくださるのだ。長所も欠点もすべて理解してくださっていて、時に応じて、私にご自分の言葉を与え、助けを与えてくれるのだと。私にとっての最大の理解者は、神なのだと。
このことに、これまでどれだけ慰めを得てきたか計り知れません。神という堅固な土台のうえに私は立たされています。ちょっとしたことで揺らごうとも、神は私を支えていてくださる。時には励まし、時には戒め、時には立ち上がらせてくださり、背中を押してくださる神。
その神に、今日も生かされることに、心から感謝して歩みたいと思います。どうぞ、皆さんにとっての一日も、そのような神の豊かな支えのもとにありますように。お祈りいたします。
長らく教会に行けない日々が続いています。この日々の聖句は有りがたいです。感謝!
返信削除谷道さん、こちらの方こそ、読んでくださりありがとうございます。
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