08/03/2022

2022.3.8 #日々の聖句 #ローズンゲン 聖書のことば

くじによって選ばれた本日の旧約聖書のことば
サムエル記上2章2節より
私たちの神のような岩はほかにありません。
 
旧約聖書に応じて選ばれた本日の新約聖書のことば
コリントの信徒への手紙一3章11節
イエス・キリストというすでに据えられている土台のほかに、誰も他の土台を据えることはできないからです。
『聖書 聖書協会共同訳』より引用・利用
 
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私は何を土台として立ち、人生の道を歩んでいくか。本日の聖書の言葉によれば、それは岩にたとえられた神であり、イエス・キリストという土台であり、他のいかなる土台に勝るものなのだということを、私たちに知らせます。
 
私が小学校5年生のときに、地域の子どもたちを対象にしたレクリエーションサークルで行われた、夏のキャンプに初めて参加して、歌ったある歌を、ふと思い出しました。
 
その歌の歌詞をすべて思い出すことはできません。しかし、その歌には「砂の上に家を建てて~」「岩の上に家を建てて~」という歌詞があったことだけはよく覚えています。そうです。イエスによる山上の説教で語られた「家と土台」の言葉(マタイによる福音書7章24~27節、他)に基づいた歌です。
 
当時、私は聖書の言葉など何も知りませんでしたから、この歌を歌いながら、砂の上に家を建てれば確かに崩れるし、しっかりとした岩の上に家を建てれば、家はいつまでも残る。この言葉はいつまでも脳裏に残るものでした(これは、「かしこい人とおろかな人」という、子ども向けの賛美歌であることを、今日改めて知りました)。
 
私たちは神という土台、イエス・キリストという土台をたとえ知っていたとしても、その上に人生という家を建てるかどうかの選択は、私たちに委ねられているところがあります。ですから、私たちが実際に家に住むときに、その家がどのような地盤の上に建てられているのかを調べるのと同様に、神、キリストという土台が何を意味しているのかを、じっくりと調べることが、私たちに求められていることを知らされます。
 
イエス・キリストという土台。それは、神の御心を完全におこなったイエスの生きざまそのものです。私たち一人ひとりを本当の意味で愛するために、イエスは何を私たちに伝え、そして行われたか。私たちは、それを聖書から耳と心をもって聴き取ることこそが、土台の詳細を知り、理解し、自分の生き方とするために、無くてはならない過程であるのだと。
 
また、これは頑丈な土台ですよとアピールしても、それが偽装だったという建築トラブルが世の中であるように、聖書を通してイエスの言動を知るうえでも、同じことが言えると私は思うのです。イエスの言動を我田引水のように利用してはいないだろうか。そのような聖書の読み方、語り方をしてはいないだろうかと、聖書の言葉を取り次ぐ務めにある私なんかは、今日の聖書の言葉を通して、改めて考えさせられました。
 
私の命をしっかりと守る、イエスという土台。この土台の上にしっかりと据えられて、今日という一日を生きたい。そんな願いを神に祈りました。そこには災いのない平和な場が与えられることを信じつつ。
 
皆さんの新しい一日にも、そのような平和が豊かにありますように。お祈りいたします。

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