18/03/2022

2022.3.18 #日々の聖句 #ローズンゲン 聖書のことば

くじによって選ばれた本日の旧約聖書のことば
詩編10編1節
主よ、なぜあなたは遠く立ち
苦難の時に身を隠されるのですか。
 
旧約聖書に応じて選ばれた本日の新約聖書のことば
マルコによる福音書4章38節より
イエス自身は、艫の方で枕をして眠っておられた。そこで、弟子たちはイエスを起こして、「先生、私たちが溺れ死んでも、かまわないのですか」と言った。
『聖書 聖書協会共同訳』より引用・利用
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神様、助けてください!
 
昨日の夜、私はそんな言葉が自分の心のなかでいっぱいになりました。そして、とても苦しい気持ちになりました。いつになったら、神様は、この私から苦しみを取り除いてくださるのだろうか。そう思ったのでした。
 
そのあと、希望の言葉が信仰の友のあいだで交わされることで、私の心はとても落ち着きました。元気があふれてきました。確かに助けはある、そのように思えてきたのです。明らかに神様が手を私の苦しみに、手を差し伸べてくださったのだと思います。そうして、眠りにつくことができました。
 
いつもより30分遅く目覚めました。私としては少々寝坊気味の朝を迎えました。ローズンゲンの言葉に目を当てたら驚かされました。まさに、昨晩の私の心境そのものが、聖書の言葉に記されているではありませんか。そうです。昨日は正直言えば、神に見離されているかのような感覚に襲われていました。
 
ダビデ王が、神に逆らう者たちの策略で苦しむ人々がある現状を目の当たりにして、必死の思いで自分の窮状を神に訴えました。こんなにも苦しみのなかにいるのに、どうしてあなたは遠く離れ、自分の身を隠しておられるのですか、手を差し伸べてくださらないのですかと。
 
大嵐のなかで船が揺れ、湖に今や放り出されそうな状況のなかで、イエスの弟子たちは恐怖のなかにいるのに、イエスはそんな弟子たちをよそに眠っておられました。弟子たちは訴えました。私たちが湖に放り出されることがあっても、あなたは何とも思わないのですかと。
 
まさに、神に見離されているような感覚そのものです。しかし、本当に神は人を見離されたのでしょうか。ダビデ王にしても、イエスの弟子たちにしても、見離されたような感覚を、いつまでも持ち続けることはありませんでした。
 
ダビデ王は、こう歌いました。
主よ、あなたは苦しむ人の願いを
聞いてくださいました。
彼らの心を確かなものとし
耳を傾けてくださいます。(詩編10編17節)
 
イエスは、弟子たちの訴えに対して、このようにされました。
イエスは起き上がって、風を叱り、湖に、「黙れ。静まれ」と言われた。すると、風はやみ、すっかり凪になった。(マルコによる福音書4章39節)
 
神が私たちの訴えを無視し、見捨てられるはずはないのだと、私たちは続く聖書の言葉を通して、知ることができるのです。それは、まさに私が昨晩に経験したことでした。
 
もう先がないと落ち込み続けることは決してない。未来には必ず神が扉を開いて、新しく、心地よい風を吹き込んでくださるのだ。そこに希望を見出そう。その希望によって、今日の一日を精一杯生きていこう。そんな思いにさせられました。
 
「もし、神は近くにいないと感じる自分自身を見るならば、神は私の近くにいるのだと考えなさい」。中世の神秘主義者であるマイスター・エックハルトの言葉です。そう。神は近くにおられる。そんなことに気づきが与えられ、それゆえに希望を見出せる一日でありますように。心からお祈りいたします。

2 件のコメント:

  1. 長らく教会に行けないので、このページをありがたく感じております。感謝!

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    1. 谷道さん、こちらこそ感謝です。コロナから、私たちが解放されますように、ただ祈るばかりです。

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