民数記23章12節より
主が私の口に授けられたことだけを、私は告げるべきではないでしょうか。
旧約聖書に応じて選ばれた本日の新約聖書のことば
使徒言行録4章20節私たちは、見たことや聞いたことを話さないではいられないのです。
『聖書 聖書協会共同訳』より引用・利用
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私が神学校に入学した21年前のことです。当時属していた教会におられた年配の信徒さんから、こういうことを言われたのを思い出しました。
「多弁なのも良いけれど、いざという時に大切なことをひと言、口にするほうが、言葉に重みが出るし信頼もされます。」
私は、自他ともに認める、多弁な人間です。それで、今までどれだけ舌禍事件を起こしてきたか数知れません。しかし、失敗を繰り返すうちに、なんでもかんでもしゃべっていれば良いというわけではないことを、学ばされています。大切なことを大切なときに、大切な言葉として伝える。まだまだ道半ば、修行中の身です。
そんななかで、今日の聖書の言葉をいただいたわけですが、本当に大切なことは、神がご自分の言葉を通して私たちに与えてくださるのだ。これが、私の黙想です。それは、昔も今もまったく変わらないことなのだと、今日の聖書の言葉を通して思わされました。
ただ、神の言葉が聖書を通して私たちに知らされるときに、それをどのように解釈し、受け止めて自分の生き方としていくかというのは、時にはシンプルに受け止めることもできれば、とても難解のように思える時もある。そうしているうちに、自分自身で複雑にしすぎてしまい、訳が分からなくなってしまうこともあれば、あまりにも単刀直入過ぎて、血の通っていないような殺し文句のようなものになってしまうこともあると思うのです。
そんな時に大切なのは、神に対する私たちのイメージというものが、聖書全体からどのようにつくり上げられているだろうか、ということへの問いであり、自己省察なのかもしれません。神は何のためにこの言葉を私に与えているのだろうかと。
そう私たちが考えるときに、その最も原点にあるのは、神は私たちに命の息吹を与え、大切に育んでくださり、具体的にはイエスという御子を私たちに遣わして、神に愛されている実感というものを、イエスというモデルを通して知ることで、自分の生き方とされ、その生き方が永遠なる平和へとつながっていく。そのことをお望みである神がおられる、ということなのでしょう。
そんな思いへとつながっていく神の言葉であることを、私たちが受け止めながら、今日も聖書の言葉に耳と心を傾けていきたい。そんなことを願わされました。私たちの発する言葉が、そのようなところから出る、神の祝福あふれたものとなりますように。
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