27/06/2026

2026.6.27(土)#日々の聖句#ローズンゲン 聖書のことば

くじによって選ばれた今日のの旧約聖書のことば
詩編141編4節
私の心を悪事に向けないでください。

旧約聖書に応じて選ばれた今日の新約聖書のことば
エフェソの信徒への手紙5章8節
あなたがたは、以前は闇でしたが、今は主にあって光となっています。光の子として歩みなさい。
©ベテスダ奉仕女母の家『日々の聖句LOSUNGEN』より引用

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皆さん、おはようございます。
「主にあって光となっています」という言葉が、今日のローズンゲン選ばれたふたつの聖句が物語っているメッセージであると私は受け止めました。そのことについて、黙想をつづりたいと思います。
 
私たちの救い主であるイエスは、「私は世の光である」(ヨハネによる福音書8章12節)と、弟子たちに告げられました。この世の闇の部分にご自身の生き方・価値観という「光」を照らされることによって、私たちひとりひとりの心のありようが明らかにされるとともに、その光に導かれながら、私たちが「神のかたち」として生きることができるように、神によって促されているということを、後に「光の子」という言葉を用いて表現されています。
 
私たちが、神のこどもとして、イエス・キリストの光によって、「光」にさせられているという事実を、私たちはどのように受け止め、また受け入れることができるというのです。しかし、私たちはその事実を受け入れることができないでいるという現実があります。私たちはどうしても闇の部分を愛し、闇にとどまろうと必死にもがいている自分自身があるのです。
 
だからこそ、確実に差し込むひとすじの光を見つめていきたいし、その光が私たちの眼中に注がれるように、視線をしっかりと合わせていく営みというものを大切にしたい。これが、私が今日受け止めたいと思ったことでした。今日は年に一度の仙台アシュラム。この聖句を胸にして、祈りと黙想の一日を、祈りの友と一緒に過ごします。
 
皆さんの心にも、主の光が豊かに注がれていることを感じ取れるような時でありますように。心からお祈りします。

26/06/2026

2026.6.26(金)#日々の聖句#ローズンゲン 聖書のことば

くじによって選ばれた今日のの旧約聖書のことば
ミカ書5章1節
エフラタのベツレヘムよ、あなたはユダの氏族の中では最も小さな者。あなたから、私のためにイスラエルを治める者が出る。その出自は古く、とこしえの昔に遡る。

旧約聖書に応じて選ばれた今日の新約聖書のことば
マタイによる福音書2章1~2節
イエスがヘロデ王の時代にユダヤのベツレヘムでお生まれになったとき、東方の博士たちがエルサレムにやって来て、言った。「ユダヤ人の王としてお生まれになった方は、どこにおられますか。私たちは東方でその方の星を見たので、拝みに来たのです。」
©ベテスダ奉仕女母の家『日々の聖句LOSUNGEN』より引用

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皆さん、おはようございます。
昨日は、黙想をつづる時間を確保することができませんでした。楽しみにしてくださった皆さんには、申し訳なく思っております。すみませんでした。
 
昨日眼科で受診し、左眼の手術を来週月曜(6月29日)におこなうこととなりました。ここがピンポイントで空いているということでしたので、ためらわず予約をしました。少しでも眼を大切にしなければと思い、手術を受けようと思います。それで、大変勝手ながら、1週間(6月29日~7月5日)黙想をお休みしたいと思います。重ねて申し訳ありませんが、どうぞよろしくお願いします。
 
さて、今日のローズンゲンに示されたふたつの聖句は、まさに救い主イエスについての預言であり記述です。長い歴史を経て、私たちのもとに命の救い主が神によって与えられる。神はそのためにずっと働いてこられたことを、私たちはこれらの聖句から見つけ出すことができます。
 
つまり、神による救いというものは、今、この時にだけ起きているものでは決してなく、長い歴史を経ているという事実を、私たちは決して忘れてはならないのです。しかし、それは伝統や歴史に固執せよという意味でもありません。そうではなくて、神を通じて神が豊かに働かれてきた歴史があるということを、私たちは大切にするのだということです。
 
神の歴史を大切にするというのは、神を大切にするということです。だからこそ、私たちが歩んできた歴史というものが、「本当に神とともに歩んできた歴史なのか?」と問い続けることは、大変重要であると言えます。聖書を読めば、時に神の歴史と同調できず、乖離してしまった人間の歴史があったことを、いくらでも見つけ出すことができます。しかし、そんな私たちのために、心をこめて働いてくださった神の歴史を通して、人間がその神に導かれて生きようとした歴史もある。私たちは、その歴史を評価し、自分自身の歴史とするのです。
 
そして、その中心には、昨日も、今日も、そして明日もともにいてくださる主イエスがおられることを、私たちの今日を生きる糧としたい。そんなことを黙想させられました。
 
今日の一日も、神が私たちの歩みを導かれ、私たちが神の歴史の一ページを歩むことができますように。心からお祈りします。

24/06/2026

2026.6.24(水)#日々の聖句#ローズンゲン 聖書のことば

くじによって選ばれた今日のの旧約聖書のことば
イザヤ書64章8節
どうか主よ、激しくお怒りにならないでください。いつまでも過ちを覚えていないでください。御覧ください。私たちは皆、あなたの民です。

旧約聖書に応じて選ばれた今日の新約聖書のことば
マタイによる福音書3章8節
(先見者ヨハネの言葉)それなら、悔い改めにふさわしい実を結べ。
©ベテスダ奉仕女母の家『日々の聖句LOSUNGEN』より引用

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皆さん、おはようございます。
『日々の聖句』日本語版には、今日6月24日は「洗礼者ヨハネ祭」とあります。洗礼者ヨハネの誕生を祝うという日とされています(もちろん、これは明確な証拠がある訳ではありません。クリスマスの半年前ということで、6月24日としているだけです。洗礼者ヨハネは、イエスが生まれる半年前に生まれたからです)。
 
ちなみに今日は、私が属する「日本基督教団」の創立記念日でもあります。今年で85年を迎えました。くしくもこの時に、教団の新任教師オリエンテーションの開催中であり、そこに参加していることに、不思議な感覚を覚えます。洗礼者ヨハネにしても、日本基督教団にしても、誕生日という節目を思うときに、それは「更新の時」であると私は感じたりしています。
 
今日のローズンゲンに示されたふたつの聖句を通して、語ろうとしているメッセージは「悔い改め」であると私は受け止めました。悔い改め。それは「方向転換」という意味で語ることもできると思いますし、「思い直して歩む」という意味も与えるものであると私は考えています。昔のことをきれいさっぱり水に流して、無きものとするということではありません。過去に引きずられないで生きるために、神が私を更新させてくださる、思い直させてくださる。これこそ「悔い改め」の本質だと私は思います。
 
今日の旧約聖書の言葉は、民たちがこれまでの背反を神にざんげし、赦しを乞うシーンです。このとき、神がいなければ、私たちは思い直し、再び歩むことはできないという民の確信がありました。だから、神に真剣に願いました。そして、民は神に赦されて、神とともに歩むことができたのでした。
 
洗礼者ヨハネは言います。「悔い改めにふさわしい『実』を結べ」と。この実は、自分でならせるのでは決してありません。神とともに生きるときに、神の思いを自分の生き方としようと願ったときに、私のこの心身に神が実を結ばせてくださるのです。この神の業に、私たちは希望を託して、与えられた務めを果たしたい。これが、今日私が得た黙想でした。
 
どうか、一日の歩みが、悔い改めにふさわしい実を結ばせてくださる神とともに歩む幸いを味わうことができますように。お祈りします。

23/06/2026

2026.6.23(火)#日々の聖句#ローズンゲン 聖書のことば

くじによって選ばれた今日のの旧約聖書のことば
詩編68編21節
彼らの神は救いの神。わが主は死から逃れさせてくださる神。

旧約聖書に応じて選ばれた今日の新約聖書のことば
コリントの信徒への手紙一6章14節
神は、主を復活させ、また、その力によって私たちをも復活させてくださいます。
©ベテスダ奉仕女母の家『日々の聖句LOSUNGEN』より引用

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皆さん、おはようございます。
今日も、神である主にあって、皆さんの一日に豊かな祝福がありますように。心からお祈りします。
 
今日のローズンゲンに示されたふたつの聖句を通して、私が受け止めたいと思ったのは「復活信仰に生きる」です。そのことについて黙想をつづりたいと思います。
 
私たちにとって「死」とは、当たり前に受け入れなければならないものであることは確かです。しかし、聖書全体を通して私たちに伝える神のメッセージは、やはり神は、当初から私たちが死ぬことを想定されてはおられない方である、ということを私たちに伝えています。
 
だからこそ、死は神との関係性の破綻によって起きた、私たちの責任によって負わなければならないものなのです。しかし、私たちはその重さに耐えられないのです。死ぬことに耐えられないのです。なかなか受け入れることができないのです。
 
昨日、残忍な殺人事件に対する裁判所の判決が言い渡されました。人の命を失い、失なわれるなかで、死を恐れる犠牲者も加害者も、その双方の様子というものを伺い知ることができました。死が人間の産物の結果とはいえ、その死を受け入れられない私たちの弱さというものが、浮き彫りにされていることを痛感させられます。
 
だからこそ、死を受け入れられない私たちにとって必要なのは、その死を私たちから逃れさせてくださり、死からの解放と復活という希望を与えてくださる神に、私たちはすべての希望を託すことこそが、私たちができる唯一のことなのだと、今日の聖句は私たちに伝え、教えてくださっているのだと、私は受け止めたいと思います。
 
命の与え主である神に感謝しつつ、命の尊さを喜べるような一日となりますように。みなさんの平安を心からお祈りします。

22/06/2026

2026.6.22(月)#日々の聖句#ローズンゲン 聖書のことば

くじによって選ばれた今日のの旧約聖書のことば
エレミヤ書2章2節
主はこう言われる。
私は覚えている
あなたの若い頃の誠実を
花嫁の時の愛を
種の蒔かれない地、荒れ野で
 あなたが私に従ってきたことを。

旧約聖書に応じて選ばれた今日の新約聖書のことば
ヘブライ人への手紙3章14節
私たちは、初めの確信を終わりまでしっかりと保つならば、キリストにあずかる者となるのです。
©ベテスダ奉仕女母の家『日々の聖句LOSUNGEN』より引用

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皆さん、おはようございます。
昨日の礼拝から、私たちはまた新しい一週間の旅路に遣わされました。日々が神とともにある幸いを味わうことのできる時でありますように。お祈りします。
 
今日のローズンゲンに示されたふたつの聖句に共通するのは「初心を忘れない」であると、私は受け止めました。そのことについて黙想をつづりたいと思います。
 
今日から3日間、私の属する日本基督教団では「新任教師オリエンテーション」が開催されます。この春、全国各地の教会や関係学校に遣わされた新任教師の先生方に対する研修と交流のときをもちます。私は準備委員の立場で参加します。思えば20年前、私もひとりの新任教師として、このオリエンテーションに参加したことを思い出しました。神学校を卒業したての者たちが3か月ぶりのリユニオンを果たしたり、他の神学校出身の先生方と良き交流を楽しんだりと、とても楽しい3日間でした。
 
その時のことを思い出していますと、宣教の場へ遣わされたことへの新鮮さとか、意気揚々とした「初心」の初々しさのようなものを振り返ることができますし、20ねん経った今、その初心に、私自身どのくらい帰ることができているだろうかと思ったりもします。初心に帰るというのは、とても重要なことだと改めて思わされます。時間が経つともに、当たり前でないことが当たり前のように思えてきて、鮮やかさというものが失われているようにも感じるからです。もちろん、時間が経つなかで神からいただくものはあまりにも多いので、そのことで満たされることも確かなのではありますが。。。
 
今日の聖句、特に旧約聖書に記されたメッセージは、神に背を向けたイスラエルの民が、かつては神とともにある幸いというものを、生きる土台としていたのに、今やそのことに新鮮さを失ってしまった自分たちの姿というものに注目した言葉です。新婚当初の新鮮さが、今や失われつつある。そのことを、神と民との関係性のたとえとして語られているのです。
 
かたちばかりは夫婦でも、その愛は冷え切ってしまっている。それを何となく惰性でやり過ごしているような状況は、決して良いものではありません。しかし、その関係になぞらえられた神と私たちの関係のなかで、神はかつての深い関係性のことを、決して忘れないと私たちに語り掛けてくださるのです。ここに帰りなさいと、神は私たちに手招きして待っていてくださるというのです。
 
それを、今日の新約聖書の言葉では「初めの確信」という言葉を用いて表現しています。子の確信は、イエスがキリスト(救い主)となられたという実体そのものに対する私たちの深い確信です。無いものを探るかのように得る確信では決してありません。私たちと関係性を求められる神が、間違いなく私たちに近づいてくださるということへの紛れもない確信なのです。
 
この確信に生きるために初心に帰る。私は新任教師の皆さんとともに過ごすなかで、今日一日の励みにしてまいりたいと思います。皆さんの一日も、そのような関係性のなかで与えられる大きな神からの祝福がありますように。心からお祈りします。

21/06/2026

2026.6.21(日)#日々の聖句#ローズンゲン 聖書のことば

くじによって選ばれた今日のの旧約聖書のことば
ヨナ書2章3節
苦難の中から私が主に呼びかけると
主は答えてくださった。

旧約聖書に応じて選ばれた今日の新約聖書のことば
コリントの信徒への手紙二12章9節
(パウロの言葉)主は、「私の恵みはあなたに十分である。力は弱さの中で完全に現れるのだ」と言われました。
©ベテスダ奉仕女母の家『日々の聖句LOSUNGEN』より引用

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皆さん、おはようございます。
新しい朝が訪れ、新しい一週間が訪れました。今日、世界中の教会で行われる主の日の喜びが、すべての礼拝や集会とともにありますように。そこに集われる皆さんが、主とともにある喜びに包まれますように。心からお祈りします。
 
今日のローズンゲンに示された聖句、特に新約聖書の言葉は、パウロによってつづられた、大変有名なものと言って良いでしょう。「我が恵み、汝に足れり」。主はパウロにそのようにお語りになられました。
 
私たちはそのことをなかなか評価できません。受け入れることができないのです。なぜなら、私がそんな恵みを十分に受けているという実感がないからかもしれません。資格がないと尻込みすることもあるでしょう。出会うのは苦しみばかり。そんななかで、神を知り、神を信じていたとしても、十分に「満足」することができないのです。
 
そうすると、自分自身を責め、また他責思考に陥っては、周囲や環境のせいにするのです。悲しいかな、これが私たちを取り囲む現実なのでしょう。しかし、パウロはつづりました。そんな私たちひとりひとりに、主の語りかけがあるのだと。それが「私の恵み」、つまり良いものは、あなたがたに十分に働いているのだ!私が、あなた方に対して精一杯働いているのだと。
 
私たちは弱い。本当に弱いんです。だから、この言葉を受け入れるだけの強さを持ち合わせてはいないんです。だからといって、私たちはさらに落ち込むのでしょうか。いいえ、決してそんなことはないのです。キリストが私たちのために働いてくださることそのものが、私たちの生きる「力」となるのです。キリストの働きが、私たちの弱さのすべてに、力として発揮してくださるというのです。
 
私たちは自力のみで、ある程度のことはできるでしょう。それを、私たちはあたかも手柄のように勝ち誇って、さも自分自身の獲得物のように豪語するのです。しかし、それは逆なのです。私たちの神の働きが、私たちのうちに御言葉と聖霊によって私たちのうちに注がれるからこそ、私たちは神の力と助けによって生きていくことが可能とさせられるのです。
 
このことを忘れずに、今日の一日を歩んでまいりたいと思います。魚の腹という暗闇のなかに放り込まれたヨナですら、神の助けによって生きることができたのですから。
心からお祈りします。

20/06/2026

2026.6.20(土)#日々の聖句#ローズンゲン 聖書のことば

くじによって選ばれた今日のの旧約聖書のことば
詩編71編23節
私の唇は喜び歌い、あなたに贖われた私の魂はあなたをほめ歌います。

旧約聖書に応じて選ばれた今日の新約聖書のことば
ルカによる福音書1章63~64節
父親は書き板を持って来させて、「その名はヨハネ」と書いたので、人々は皆不思議に思った。すると、たちまちザカリヤは口が開き、舌がほどけ、ものが言えるようになって、主をほめたたえた。
©ベテスダ奉仕女母の家『日々の聖句LOSUNGEN』より引用

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皆さん、おはようございます。
昨晩はたっぷりと休んで、朝もゆっくりと起きました。今日は午後に会議に出席するために東京へ向かっています。今、その車中からこの黙想をつづっています。
 
今日のローズンゲンによって選ばれたふたつの聖句に共通するキーワードは「賛美」です。賛美の歌を歌うこと。私たちはそれがたとえ賛美で無かったとしても、歌うということに喜びや楽しさ、心の満たされるような思いにさせられることをよく知っています。
 
私たちは教会の礼拝で賛美歌を歌うことがあるでしょう。歌うことが好きな方は、音符が自由に読める方は、歌うことに大きな充実感のようなものを感じるに違いありません。歌うのが苦手、声が小さい、そういう方でも、まわりで歌われるその歌声に、うっとりすることもあるかもしれません。もしかしたら、賛美歌に好き嫌いがあるかもしれません。歌詞にこだわりがあるかもしれません。自分の感覚に合わない、そんなことを思ったりするかもしれません。好き嫌いがあるということは、それだけ関心があるということの表れかもしれません。
 
いずれにせよ、歌うということが、私たちの生活ち切って離せないものであることは確かですし、神の民が長い歴史のなかで、神とともにあることの喜びの表現方法として、賛美という方法が用いられ続けてきたことを考えれば、私たちが賛美というものに、どのように向き合うことができるかについて、じっくりと考えることができるのではないかと私は考えます。
 
今日の聖句に「贖い(いわゆる「つぐない」と言ってもよい意味の言葉)」や、長い期間口から言葉を発することができなかったひとりの老人が、神によって再び話せるようになったときの心境として、賛美の歌を歌っていることに、私たちは注目したいと思います。賛美はなにも、順風満帆なときだけに歌うものではありません。つぐなってほしいとき、つぐなわなければならないと思っても、なかなかそのことが果たせない時、悩み苦しむとき、そして不自由を感じるときに、私たちはその想いを「神とつながるための大切な道具」として、賛美をゆたかに用いることができるのです。
 
このような思いが賛美に結び付いたとき、たとえ歌わなくても、歌ったとしても、その場にはえもいわれぬ充足感というものが満ち溢れるに違いありません。聖霊なる神がそのようにしてくださるのです。
 
私たちの誰もが、今日の営みのなかで、神とともにある喜びや望みを賛美に託すことができますように。皆さんが神に祝福されてお過ごしになられますように。心からお祈りします。

19/06/2026

2026.6.19(金)#日々の聖句#ローズンゲン 聖書のことば

くじによって選ばれた今日のの旧約聖書のことば
詩編31編9節
あなたは私の両足を広々とした場所に立たせてくださる。

旧約聖書に応じて選ばれた今日の新約聖書のことば
ガラテヤの信徒の手紙5章1節
この自由を得させてくださるために、キリストは私たちを解放してくださいました。ですから、しっかりと立って、二度と奴隷の軛につながれてはなりません。
©ベテスダ奉仕女母の家『日々の聖句LOSUNGEN』より引用

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皆さん、おはようございます。

「自由には責任がともなう」
 
しばしば聞かれるこの言葉は、一説では心理学者フロイトが言い始めたものとは言われていますが、そうでなくても、古今東西誰もが認める常識として、広く知られているものであるというのが、本当のところかもしれません。なぜなら、「自由」によって、本当に人間が自由を味わう喜びを経験できた一方で、誰かが獲得した自由のもとで、自由が剥奪されることによって、「不自由」を経験しなければならない人たちも多く存在したのを、私たち人間はよく知っているからです。
 
神は自由を愛され、そして自由というものを私たちひとりひとりにお与えになられました。今日の旧約聖書・詩編の言葉は、自由というものがまさに神から与えられたことを、心から実感した詩人の賛美です。神がどのような思いで、私たちひとりひとりに自由を授けられたのかということを、この人は理解していました。足かせをはめられた状態では決してなく、広々としたところで両足を地につけて歩むことのできる幸いというものを、心の底から賛美したのです。
 
そしてこの賛美は、誰もが味わうことのできるものなのだということを、神は変わることなく、私たちに知らせてくださるのですが、しかし、人間世界は「誰もが」自由を味わうことができないよう、独り善がりな人たちによる「自由の占有」がなされ続けてきたのです。
 
つまり、私たち人間による個々人の自由観というものが、どのように形成されるかで、自由が自由でなくなってしまうということなのです。少なくとも、神が望まれる自由というものが、世界中に広がりゆくことを、私たちは心の底から認め、受け入れ、それを尊重することが求められるのだと、私はあらためて思わされます。
 
キリストが、私たちを不自由によってがんじがらめにされた状態から解放してくださった、このことが今日の新約聖書の言葉が意味するところです。後に宗教改革者マルティン・ルターは、「キリスト者の自由」という言葉を用いて、神の御心という基盤があってこそ、この自由が自由とされていくことを説きました。私たちもまた、自分が味わう自由というものが、本当に神に由来しているものなのかどうかを、じっくりと吟味する必要があるのです。
 
どうか今日の一日もまた、私たちが誰でも喜べる自由というものを謳歌することができますように。祈りつつ、主の御心とともに生きる幸いを味わうことができますように。心からお祈りします。

18/06/2026

2026.6.18(木)#日々の聖句#ローズンゲン 聖書のことば

くじによって選ばれた今日のの旧約聖書のことば
出エジプト記9章34節
ファラオは、雨も雹も雷もやんだのを見て、またも罪を犯し、心がかたくなになった。

旧約聖書に応じて選ばれた今日の新約聖書のことば
テモテへの手紙一4章10節
きょうだいたち、あなたがたのうちに、不信仰という悪しき心が芽生えて、生ける神から離れ去る者がないように気をつけなさい。
©ベテスダ奉仕女母の家『日々の聖句LOSUNGEN』より引用

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皆さん、おはようございます。
昨日は体調が不良だったため、一日休んでおりました。そのため、黙想もお休みしました。告知なく大変申し訳ありません。しかし、一日休んでかなり回復しました。今日も健康が与えられたことに感謝して、与えられた務めに当たりたいと思います。
 
今日の新約聖書にある「不信仰」とは何か。そんなことを考えてみたいと思います。信仰とは、救い主イエスが私たちのためにその生きざまを示してくださったこと、それは夢でも幻でもなく、いまだ私たちとともにいてくださるという実体そのものを指します。だから、信仰は「得る」ものではなく「与えられる」ものなのです。イエスからの素晴らしい贈り物なのです。
 
この贈り物は誰にでも与えられるものです。ですので、そこに「不」という文字が付けられるということは、これこそ私たちが意識的であろうと、無意識であろうと、それを「拒絶」することに他なりません。つまり、三位一体の神の働きをないがしろにして、自分自身が神となろうとしてしまう態度が表出したときに、それは「不信仰」なのであり、罪が露わにされるということなのです。
 
エジプト王(ファラオ)は、まさに「のど元過ぎれば熱さ忘れる」の状態でした。災いが振りかかれば、一旦は神妙になりました。しかし、時が過ぎればそんなことをいとも簡単に忘れてしまうのです。私たちも、調子の良い時だけ神を熱心に賛美し、信仰の行動を見せるけれど、少しでも自分自身に都合の悪いことが起きれば、いとも簡単に不信仰になってしまうということはないでしょうか。
 
私がかつて、こんなことがあったのを思い出します。祈れない、聖書が読めない、礼拝に行きたくない。そんなことがありました。しかし、同じ教会のある方が、私にこんなことをおっしゃいました。「そんなことをすべてわかっている神があなたと一緒におられるのだから、そういう時こそ、あなたはほんの少しでもいいから聖書の言葉に触れて、ひと言でもいいから神に祈って、寝ててもいいから礼拝に出てみたらいいんだよ。神は必ず、あなたに必要なものを与えてくれるから。」
 
私はこのひと言がなかなか受け入れられませんでした。しかし、受けとめて、その通りにしてみることにしました。今思えば、ああ、本当にその通りにしていてよかったなと思ったのです。無理しなくても良い。しかし、神が私に触れてくださる体験を、私自身が感じ取らなければ、何も起きてこないのだ。そう思ったのです。
 
この「日々の聖句 ローズンゲン」も同じです。たったひと言の聖句です。しかし、今日一日の私たちの命を支え、信仰の歩みを導いてくださる。ほんの少しの時間でも、本当に大切な営みを持つことができるのだと、あらためて思わされます。
 
どうか、今日一日の皆さんの歩みをともにしてくださる神である主が、守りと祝福を豊かに与えてくださいますように。心からお祈りします。

16/06/2026

2026.6.16(火)#日々の聖句#ローズンゲン 聖書のことば

くじによって選ばれた今日のの旧約聖書のことば
箴言14章26節
主を畏れるところには強い信頼が生まれる。

旧約聖書に応じて選ばれた今日の新約聖書のことば
ヨハネの手紙一5章18節
神から生まれた人は誰も罪を犯しません。
©ベテスダ奉仕女母の家『日々の聖句LOSUNGEN』より引用

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皆さん、おはようございます。
信頼とはなんでしょうか。今日のローズンゲンに示された箴言14章26節の言葉に、あらためて注目したいと思いました。
 
神である主への畏れ。それは決して恐怖に取り囲まれたオソレのことではありません。私たちは周囲を恐れます。強いものに恐れ、自分自身への他者による評価に恐れ、自分自身の立場を脅かすすべてに対して恐れるのです。だから、この世界はいつも安心できないのです。
 
しかし、神はそのような世界につくりあげたつもりは全くないのです!あくまで神は、私たちが安心できる世界を、ご自身の創造によってつくられたのです。しかし、人間は神に恐怖を覚えました。自分自身が「神」になろうとしたからです。神をないがしろにして、私こそ絶対的に正しいと、主張するようになったからです。
 
しかし、私たちは神を恐れます。明確な自覚がなかったとしても、実は私自身が非常に弱く、もろい存在であることを知っているからです。だからこそ、自分自身を一生懸命鍛え上げ、他者に負けじと歯を食いしばるのです。こうやって形成された世界は、いつの間にかオソレというものに対して、大変鈍感になってしまいました。
 
ここで神は語られます。私たちが他者による評価を恐れなくても、自分の弱さにビクビクしなくても、そんな私たちを受け入れてくださる方がおられる。それこそ「神が私たちとともにいてくださる」ことへの、深い信頼の思いが芽生えてくるのです。もっとも、私たちが神に信頼できるのは、神が私たちのことを信頼していてくださるからということを、私たちは決して忘れてはならないのです!
 
罪を犯さないという今日の聖書の言葉は、完全無欠のスーパーマンになるということではありません。私たちは相変わらず神に背を向け、神が望まれることに反して、恐怖心を抱え続けます。しかし、神という親が与えられている私たちが「神の子」として生きようと願うならば、神が私たちのうちにある罪に対して、過剰に恐れることなく、また開き直ることもなく、深い信頼関係によって、私たちが安心して生きることができるように、導いてくださるのだ。これが、今日の聖句から得た黙想でした。私もそのように生きたい。そんな憧れが、私の今日を支えてくださることを望みます。
 
皆さんにとっても今日の一日が、恐れではなく、神との信頼関係によって生み出される安心によって、豊かに祝福されますように。心からお祈りします。

15/06/2026

2026.6.15(月)#日々の聖句#ローズンゲン 聖書のことば

くじによって選ばれた今日のの旧約聖書のことば
イザヤ書60章2節
見よ、闇が地を覆い
蜜雲が諸国の民を包む。
しかし、あなたの上には主が輝き出て
主の栄光があなたの上に現れる。

旧約聖書に応じて選ばれた今日の新約聖書のことば
ヨハネによる福音書8章12節
(イエスの言葉)私は世の光である。私に従う者は闇の中を歩まず、命の光を持つ。
©ベテスダ奉仕女母の家『日々の聖句LOSUNGEN』より引用

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皆さん、おはようございます。
この世界は「闇」のなかを歩んでいる。それは、昔も今も決して変わりない事実として、私たちのすべてを覆っています。闇のなかは見えませんから、見えないことをいいことに、さまざまな虚偽や欺瞞が渦巻き、それをさも真実のように人々に振りまき、人々を惑わしている状況があることを、私たちはよく知っているのではないでしょうか。
 
だから、私たちにとって「本当のこと」とは何なのか。分からないことがたくさんあるのです。ある種の情報に振り回され、闇が闇を生み出して、本当のことをさらに見えなくさせてしまうのです。情報過多な世の中ですから、私たちは多種多様の情報から、宝のようにきらりと光る真実を探し出さなければならないのです。
 
今日の聖書の言葉は、そんな闇にひとすじの光が投じられることへの幸いについて語られている箇所が選ばれています。荒廃から回復へ、そのことが具体的に、イエス・キリストによって示されました。イザヤ書もヨハネ福音書も、歴史的に一貫した「光」というテーマを私たちに示すことにより、ただ、神のなさることに全幅の信頼を置いて歩むならば、周囲がどのような罵詈雑言を浴びせたとしても、その光だけを頼りに、歩むことが大いに許されているのです。そのような希望に、今日も私たちは神の光を見つめつつ、歩む者となりますようにと祈ります。
 
今日の聖書の言葉。詳細を記すのはここでは控えますが、今日の予定のなかで、まさに闇のなかに光を投じられる神がおられるということが、その予定をこなすのに最も大切な希望なのだと、私自身感じさせられました。ずっと闇のなかで苦しんできたことだけに、今日の聖書の言葉は、まさに希望の語りかけとして、私の心に響きました。皆さんのなかにも、私と同じような思いを持たれた方がおられるならば、お互いに、神になさることに期待しつつ、今日の一日を歩むことができますようにと、心よりお祈りします。どうぞ素敵な一日をお過ごしください。

14/06/2026

2026.6.14(日)#日々の聖句#ローズンゲン 聖書のことば

くじによって選ばれた今日のの旧約聖書のことば
エレミヤ書24章7節
私は彼らに、私が主であることを知る心を与える。

旧約聖書に応じて選ばれた今日の新約聖書のことば
ルカによる福音書24章32節
二人は互いに言った。「道々、聖書を説き明かしながら、お話しくださったとき、私たちの心は燃えていたではないか。」
©ベテスダ奉仕女母の家『日々の聖句LOSUNGEN』より引用

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皆さん、おはようございます。
新しい一週間がやってきました。この七日間の旅路を、私たちはどのように歩むことができるでしょうか。今日もローズンゲンを通して与えられた聖書の言葉に、耳と心を傾けてまいりたいと思います。
 
神は私たちにひとりひとりに、神が「主」、つまり、神が私たちとどんな時にも一緒にいてくださる方であることを「知る心」を与えてくださると、はるか昔の預言者であるエレミヤに告げられました。
 
私たちにとって「知る」とは、単に「知っている」ということ以上の意味が含まれています。誰々さんを知っている、この人はこういった肩書でこういう背景をもっていて、こんなことを言った、あんなことを行動した人であるという、その人の人となりのことを、私たちは「知っている」という言葉を使って表現するかもしれません。
 
しかし、ここで言う「知る」とは、「理解する」ということを意味しています。うわべだけで知っているのではなく、その相手の本質というものを「理解する」のです。良い部分も悪い部分もすべて理解するというのは、その相手を尊重することをも意味します。
 
ですから、私たちが神を知る心というのは、神が私たちとともにいてくださるという自覚と意識が、神のみ心どおりに、私自身の人生をも変える力をお持ちであるということを、いかに受け入れることができるのかということと、深い関係性があるのです。そのうえで、神はわたしたちひとりひとりに、ご自分を「知る心」を与えてくださるというのです。
 
イエスが復活したその夕方、エマオ村の途上で復活のイエスに出会ったふたりの弟子たちがそうでした。彼らは十字架にかけられて殺され、しかしどうやら復活したらしいという「情報」は知っていました。しかし、目の前に復活のイエスがいても、それを見ても、究極的に彼らはイエスを「知ること」ができませんでした。
 
しかし、イエスが聖書からすべてを説き明かしたとき、彼らの心は熱くなりました。この「熱くなった経験」こそが、神である主がイエスを救い主として与えてくださったことを「理解」した瞬間だったのです。知るとは、このような心の熱さをもって、神がともにいてくださることの大切な意味でした。
 
私たちは今日、それぞれの教会や集会でおこなわれる礼拝で、聖書の言葉に聴きます。その言葉は、私たちの心を熱くするべく、神が与えてくださった助けに他なりません。大切なのは、その言葉が今の自分自身を活かす力となりゆくという、紛れもない事実です。私たちはそのことを今、語る側も聴く側も受け入れようとしているでしょうか。
 
そんな思いをもって、今日の一日もともに歩んでくださる神である主をあがめ、自分自身の生きる力としてまいりたいと思います。どうかすべての歩みに、私たちが主を「知る」心というものを確かめることができますように。心からお祈りします。

13/06/2026

2026.6.13(土)#日々の聖句#ローズンゲン 聖書のことば

くじによって選ばれた今日のの旧約聖書のことば
イザヤ書40章30~31節
若者も疲れ、弱り、若い男もつまずき倒れる。
しかし、主を待ち望む者は新たな力を得
鷲のように翼を広げて舞い上がる。
走っても弱ることがなく
歩いても疲れることはない。

旧約聖書に応じて選ばれた今日の新約聖書のことば
ヘブライ人への手紙12章1~2節
すべての重荷や絡みつく罪を捨てて、自分に定められている競争を忍耐強く走り抜こうではありませんか。
©ベテスダ奉仕女母の家『日々の聖句LOSUNGEN』より引用

******
 
皆さん、おはようございます。
韓国出張も無事に終わりを迎え、仁川空港にも到着しました。あっという間の数日間でしたが、いろいろ学びの多いひと時でした。そのことを思い巡らせながら、今日のローズンゲンに示された聖句に触れたときに、私たちは「どこ」を見つめ、どこに向かって歩んで行くのだろうか。そんなことを深く考えさせられました。
 
カルト宗教被害のような、神を利用した人間が人間を支配する構造だけではなく、私たち人間世界は、人と人とのあいだで「つまずき倒れる」ような疲れ、ストレス、弱ってしまうような出来事が、実に多いことを痛感させられています。そんなことから解放されたいと思いつつも、どうしてもいさかいというものが生じてしまう。だとしたら、その原因はどこにあるのでしょうか。
 
今日の新約聖書であるヘブライ人への手紙には、そのことを「すべての重荷や絡みつく罪」と書かれています。そうなんです。このすべては「罪」のゆえなのです。罪とは、神と同調できない私たちの態度のことを指します。神とともに歩みたいと願いつつも、自我があまりにも強いばかりに、その歩みに素直になれないのです。誰でもそうです。私なんかその最たる者であることをしばしば感じさせられます。そんな私でも、人間関係に疲れ果ててしまうことがあるからです。
 
つまり、私たちの思いや心のなかで、「神とともに歩みたいと願うこと」「神が私の心や思いをご自分の力で整えてくださること」「神が私たちとともに歩めるように支えてくださること」という神のなさることに、どれだけ心を寄せることができているだろうか。ここにこそ、今日の二つの聖句が指し示すメッセージというものがあるのです。
 
人ばかり見ていないで神を見るのです!自分自身の足りなさを棚に上げて、人にそのことを要求しないのです!神が愛しておられるすべての人を、私たちは愛することができないこともあるでしょう。でも、神が愛しておられる事実を認めることはできるのです。神の愛は、なにも甘えに満ちたものではありません。時に戒め、気づかせ、悔い改めさせる力すら持っている。愛する子たちに、ご自身とともに歩む幸いというものを味わってほしいのです!
 
私たちには今日も、忍耐強く走るべき競争路が与えられています。しかし、途中で断念してしまうようなものでもないのです。なぜなら、神が助けてくださるからです。その助けを頼りとして、今日の一日を歩むことができますように。皆さんのためにも、そして私のためにも、祈りをささげます。

12/06/2026

2026.6.12(金)#日々の聖句#ローズンゲン 聖書のことば

くじによって選ばれた今日のの旧約聖書のことば
申命記8章7節
あなたの神、主は、あなたを良い地に導き入れようとしている。そこは、平地でも山でも川の流れがあり、泉や地下水が溢れている地である。

旧約聖書に応じて選ばれた今日の新約聖書のことば
コリントの信徒への手紙二9章8節
神は、あらゆる恵みを、あなた方に満ち溢れさせることがおできになります。こうして、あなた方は常にすべてのことに自足して、あらゆる善い業に満ち溢れる者となるのです。
©ベテスダ奉仕女母の家『日々の聖句LOSUNGEN』より引用

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皆さん、おはようございます。
 
韓国での3日目の朝を迎えました。昨日の異端・カルトセミナーの務めも無事終え、今日はエクスカーションの時を持ちます。その後ソウルに戻り、帰る準備をします。明日の早朝、仙台に向けて出発します。

パソコン作業が、今朝泊まっているホテルでできないため、スマホから今日の黙想をお届けしたいと思います。今日の旧約聖書と新約聖書をつなぐ鍵の言葉は、満ち溢れる、でした。一言で言えば、神は私たちの思いも心も、ご自身の良いもので、満ち溢れさせてくださるというのです。
 
果たして、私たちは、その神の思いを受け取っているでしょうか?なかなかそのように感じられないこともあるでしょう。私たちの日々の生活は、満ち溢れると言うよりは、何かに欠乏し、その欠乏ゆえに、悩みや苦しみがあるからです。
 
この世の中の不条理さが、私たちにそのような思いを抱かせるのかもしれません。しかし、私たちが満ち溢れるような気持ちになれない理由は、世の中の不条理だけのせいでしょうか。私はそうではないと思っています。
 
実は、神から十分な恵みをいただいているのにもかかわらず、それが私の中で「気に入らない」と言う理由で、おのずとそのような良いものを跳ね除けてしまっている自分自身があるのではないか。そのようなことをつくづく考えさせられるのです。もしそうだとしたら、私たちの側に何らかの原因があると考え、神の恵みを満ち溢れさせるだけの自分自身があるかどうかを、じっくりと見つめていく必要があるのでしょう。
 
エジプトから神様が示された地に旅を続けたイスラエル人がいました。40年間にわたり、その旅路は苦しみの連続でした。たちの中には、不平不満をこぼし、神のなさることを疑い、自分の思い通りにいかないことを嘆き、それゆえに、自分を正当化するような出来事に、心も思いも持っていったということがありました。
 
しかし、その40年を振り返った今、やはり神は私たちに良いものを与え続けてくださっていたではないか、そのことが歴史を振り返るモーセの口から告白されたのです。私たちも、このモーセのように神に良いものが与えられ、満ち溢れていることを告白するものでありたいと心から願います。
 
どうか、今日の1日も、神と共に歩む幸いを味わうことができますように。心からお祈りします。

11/06/2026

2026.6.11(木)#日々の聖句#ローズンゲン 聖書のことば

くじによって選ばれた今日のの旧約聖書のことば
ヨシュア記1章9節
強く、雄々しくあれと、私はあなたに命じたではないか。

旧約聖書に応じて選ばれた今日の新約聖書のことば
コリントの信徒への手紙二1章9~10節
(パウロの言葉)私たちとしては死の宣告を受けた思いでした。それで、自分を頼りにすることなく、死者を復活させてくださる神を頼りにするようになりました。神は、これほど大きな死の危険から私たちを救ってくださったし、また救ってくださることでしょう。これからも救ってくださるに違いないと、私たちは神に望みを置いています。
©ベテスダ奉仕女母の家『日々の聖句LOSUNGEN』より引用

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皆さん、おはようございます。
 
昨日から出張で韓国に滞在しています。韓国と日本の両教会が協働して行われ続けてきた「異端・カルトセミナー」に出席するためです。日本側の発題をする役目をいただいています。無事にやり切れるよう、お祈りくだされば幸いです。よろしくお願いいたします。
 
そんな緊張と不安のなかにある私に、「強く、雄々しくあれと、私はあなたに命じたではないか」という、今日のローズンゲンに示された旧約聖書の言葉は、相当響くものがありました。強くあること、雄々しくあることとは、別に私自身がストレス耐性がしっかりしていて、何事にも負けない強靭な精神力をもって、強く雄々しくあるわけではありません。むしろ逆です。その体も心も、本体は実に脆弱なものであることを、私たちがいかに自覚できるか。そこにこそ「強く、雄々しくある」ことの基盤というものがあると、私は受け止めたいのです。
 
弱いからこそ、頼りないからこそ、もっとも強く、雄々しくある方が、私たちのことを見放さずに共に歩んでくださるのです。それゆえに、私たちはその方の力強さにしっかり支えてもらって、その方がご自分の思い願いを、私を用いて果たさせてくださるのだ。ここから生じる安心感こそ、私たちが「強く、雄々しくあれ」と命じられた根本にあるのだと思うのです。
 
もっとも強く、雄々しくある方こそ、私たちの父なる神に他なりません。そして、この父が、私たちの命を救うために、この世界に遣わしてくださった方、み子イエスこそ、キリスト(救い主)であり、聖霊の助けをもって私たちと共に、具体的に歩んでくださるというのです。実際にイエスも、その強さとは裏腹に、十字架に架かられたときには、弱さというものをさらけ出して、私たちに見せてくださいました。「人間とは弱いものだ。しかし、その弱さこそ、神の力によって強くさせられるのだ」と。
 
さまざまな苦難を味わったパウロが、今手紙を書き送っているコリントのクリスチャンたちへ、その弱さというものに触れながら、このように手紙にしたためました。「神は、これほど大きな死の危険から私たちを救ってくださったし、また救ってくださることでしょう。これからも救ってくださるに違いないと、私たちは神に望みを置いています。」
 
神に望みを置くことのできる一日でありますように。皆さん、そして私自身のためにも祈りを合わせます。どうぞ主にあって、素敵な一日をお過ごしください。

10/06/2026

2026.6.10(水)#日々の聖句#ローズンゲン 聖書のことば

くじによって選ばれた今日のの旧約聖書のことば
イザヤ書55章1節
さあ、渇いている者は皆、水のもとに来るがよい。

旧約聖書に応じて選ばれた今日の新約聖書のことば
ヨハネによる福音書6章35節
(イエスの言葉)「私を信じる者は決して渇くことがない。」
©ベテスダ奉仕女母の家『日々の聖句LOSUNGEN』より引用

******
 
皆さん、おはようございます。
 
イエスはしばしば「渇く」という言葉を通して、それは生理的な喉の渇きにとどまらず、私たちの心の渇き、また渇望する私たちの思いなどもすべて含めて、その言葉を用いられました。今日の新約聖書の言葉であるヨハネによる福音書6章の聖句も、まさにそのことを物語る言葉であるといって間違いないでしょう。
 
イエスは、「私を信じる者は」と前置きされたうえで、決して心や思いが渇き切ることはないのだということを宣言されました。イエスの何を信じるのでしょうか。イエスという存在のそのものを、私たちは心から受け取ることができますし、イエスがなされた言動のすべてを通して、それは今を生きる私たちひとりひとりにも与えられていることを、心から受け取ることができます。水場へ集まって、流れ出る水をすくい、それを口に含んで冷たい水を五臓六腑にしみわたらせるときに、私たちは爽快さを十分に感じることができるように、イエスの言葉を私たちは、自分自身の体内にしみわたらせることができるのです。
 
今日の旧約聖書の言葉は、「水のもとに来るがよい」と記されています。私たちがただ待ち尽くしても、水を飲むことは決してできません。水場へ集まるのです。その場へ私たちが向かうのです。イエスの言葉を受けようと、神の良いものをいただこうと、私たちは腰を上げて能動的にその場へ赴くのです。本当に喉が渇いていれば、水場へ私たちは駆け込むでしょう。だだ自動的に流れてくるものを受けているだけでは、もちろん生理的に喉を潤すことができるのだと思いますが、やはり、私たちにはそれ以上の「渇望」を味わうことは難しいのかもしれません。私たちの心が、思いが、水場に向かうことを神は私たちに期待しておられるのです。
 
イエスの言動に聴き、それを豊かに受け取り、自分自身の言動の支柱とすることへの幸いというものを、今日も是非味わってまいりたいと思います。皆さんの一切に、渇きを癒やしてくださる主がともにいてくださいますように。お祈りします。

09/06/2026

2026.6.9(火)#日々の聖句#ローズンゲン 聖書のことば

くじによって選ばれた今日のの旧約聖書のことば
創世記32章2節
ヤコブは旅を続けたが、その時、神の使いたちが現れた。

旧約聖書に応じて選ばれた今日の新約聖書のことば
使徒言行録27章23~24節
(パウロの言葉)「私が仕え、礼拝している神からの天使が、昨夜私のそばに立って、こう言いました。『パウロ、恐れるな。あなたは皇帝の前に出頭しなければならない。神は、一緒に航海しているすべての者を、あなたに任せてくださったのだ。』」
©ベテスダ奉仕女母の家『日々の聖句LOSUNGEN』より引用

******
 
皆さん、おはようございます。
 
神がおられるから大丈夫だと心に言い聞かせても、やはり不安が付きまとい、私から離れることがなく、恐れと不安に苛まれる。こんな「不信仰な姿」を人々の前にさらけ出してしまうならば、人々のつまずきにならないだろうか。
 
誤解を恐れず言うならば、私の日常などそんなものなのです。不安を得れば、御言葉に向き合って、祈って、ひと時の安心を得て、得たかと思ったらまた元通り。不安のまったくない世界があったら、どれだけ幸せだろうかと想像しながら、この世で生きている以上、それは無いのだなと現実に帰らされたりと。
 
そんな自分自身に、しばしば疲れてしまうのです。疲れれば疲れるほど、物事が何でもネガティヴに見えてしまい、そのスパイラルに巻き込まれてしまうのです。
 
だからこそ、そんな私に、今日の聖書の言葉がとても光輝いて見えるのです。私の暗くなった足元を照らしてくれるのは、そして行くべき道を示してくれるのは、神の言葉を携えた天使たちの働きによって。ヤコブの道も、ローマへ至るパウロの道も、こうして天使たちが導いてくれました。その天使をこの場に遣わされたのは、紛れもなく神によるものでした。
 
今は五里霧中のなかにあっても、霧は必ず晴れるのだ。そんな思いを胸にして、新しい一日を歩むことができますようにと祈りつつ、今日の一日を過ごしてまいりたいと思います。皆さんにとってのこの一日も、もし霧のなかをもがいておられるならば、その霧が晴れてくるような経験が、霧のなかにないならば、行くべき道を確かに歩むことができますように。心からお祈りします。

08/06/2026

2026.6.8(月)#日々の聖句#ローズンゲン 聖書のことば

くじによって選ばれた今日のの旧約聖書のことば
イザヤ書49章4節
しかし、私は言った。
「私はいたずらに苦労し
 意味もなく、空しく力を使い果たしました。
 それでも、私の公正は主と共にあり
 私の報酬は私の神と共にあります。」

旧約聖書に応じて選ばれた今日の新約聖書のことば
ルカによる福音書5章5節
シモンは、「先生、私たちは夜通し働きましたが、何も捕れませんでした。しかし、お言葉ですから、網を降ろしてみましょう」と答えた。
©ベテスダ奉仕女母の家『日々の聖句LOSUNGEN』より引用

******
 
皆さん、おはようございます。
今日のローズンゲンに示された、旧約聖書・イザヤ書49章4節に「私の公正」という言葉が登場します。この言葉に、私は注目してみたいと思ったのです。
 
公正。ただ正しいのではありません。誰の目から見ても、そして、神の目から見ても「正しい」のです。ここに、私たちはしばしば「勘違い」することがあるのではないかと私は感じるのです。この正しさは本当に「公正」なのだろうかと。
 
私のなかだけで正しいと感じてもダメなのです。誰の目から見てもです。私たちは自分が正しいことを正しいと信じて行動する存在です。しかし、それは時に、極めて独善的な、人の幸福などお構いなしで強行されることだってあるのです。私さえ気持ち良ければそれでいいのです。こういう態度から私たちは衝突を生み、格差が生じ、いびつな構造が生まれていく。これを「公正」とは決して言わないのです。
 
究極的に言えば、私たちは「私の公正」などを、自分の力で行使することなどできません。私以外の「公正」こそが、私自身に公正ということを教え、諭し、そのように生きるように促すのです。これこそが神の公正(原語でミシュパート)なのだと言うのです。私たちは、神の公正をしっかりと、ゆがみのない形で受け取ってこそ「私の公正」という言葉がはじめて成立するということなのです。
 
私の公正は、しばしば「労苦」を生じさせます。公正のふりをする、公正の名のもとに傍若無人に振舞う、自他ともに働くそのような力によって、徒労感を生ませ、ストレスを抱き、疲れさせてしまいます。しかし、私の公正が本当に神の働かれる公正に基づくものであるのならば、そのような徒労感は、必ず神である主によって取り除かれることを心から信じたいのです。
 
夜通し漁をしたけれど何も捕れなかったシモンの徒労感がありました。彼にとっての経験や知識は、彼なりの公正であったかもしれません。しかし、彼は「お言葉ですから」とイエスに告げ、イエスの言われた通りにもう一度、網を湖に落としました。その結果は、イエスの公正が豊かに働く結果となりました。あふれんばかりの魚が捕れたのです。
 
私の公正とは神の公正を十分に受けたところで初めて働くものであることを、私は今日のふたつの聖句から受け取りたいと思いました。それに抗うさまざまな出来事に苦労しつつも、その苦労があるからこそ、神の正しさに自らを委ねて今日を生きたいのです。この一日が少しでも、神の平安を味わうものであるためにです。皆さんの主にある平和を、心からお祈りします。

07/06/2026

2026.6.7(日)#日々の聖句#ローズンゲン 聖書のことば

くじによって選ばれた今日のの旧約聖書のことば
詩編138編7節
主よ、たとえ私が苦難の中を歩んでいても
あなたは私を救ってくださる。

旧約聖書に応じて選ばれた今日の新約聖書のことば
ヨハネによる福音書16章33節
(イエスの言葉)「あなたがたは世で苦難がある。しかし、勇気を出しなさい。私はすでに世に勝っている。」
©ベテスダ奉仕女母の家『日々の聖句LOSUNGEN』より引用

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皆さん、おはようございます。
新しい一週間がやってきました。今日、世界中でおこなわれる主の日の礼拝が、神である主の喜びに満ちあふれたものとなりますように。たとえ、礼拝する余裕すらない心の苦しみを味わっている方々がおられたとしても、その礼拝こそが、苦しみを少しでも取り除き、緩和焦る場であることを、一人でも多くの方が経験する場となりますように。そのことを祈りつつ、ローズンゲンに示された今日の聖書の言葉に聴きたいと思います。
 
たとえ世の中が、あの人が、この人が、私のことを分かってくれていなくても、神は、私のことを分かっていてくださる。これが、神を私たちの希望とする大きな根拠となることを、私たちは体験的に知っているのだと思いますし、信じて受け取りたいと思うのではないでしょうか。私もそのひとりとして、これまでこれだけ「神は分かっていてくださる」というところに自分自身を据えて生きていただろうかと思い出します。
 
しかし、私たちはその思いが「単なる独り善がり」にならないように、自分自身の思いというものをよく確かめる必要があることも事実なのだと思えてなりません。神が私たちのことをすべてご存知であるというのは、今日の聖書の言葉のように、神の思い、イエスの思いに自分自身を「沿わせている」がゆえに、それに抗する勢力から降りかかる苦しみをすべてわかっていてくださるという意味もあれば、私たちが神の御心に自分自身を合わせて生きていないがゆえに生じる苦しみというものをも、よくご存じであるという意味もあるでしょう。その場合、私たちには罪の悔い改めというものが求められることもあるでしょう。
 
もし、私たちにそのような改善であるとか、転向、悔い改めて生きることが必要であるならば、神は必ず私たちを守り、勇気を与え、神である主とともに歩む思いと力を与えてくださるのだと、私は信じたいのです。ですから、今日の聖書の言葉は、主にあって忠実、誠実である私たちの姿もさることながら、そうになりきれていない私たちにも当てはまる神の恵みの言葉なのだと、私は受け止めました。
 
この新しい一週間を歩む、希望の言葉として、今日の聖句が私たちの心のうちを豊かに照らしてくださいますように。皆さんの一切に、主の平安と祝福を心からお祈りいたします。

06/06/2026

2026.6.6(土)#日々の聖句#ローズンゲン 聖書のことば

くじによって選ばれた今日のの旧約聖書のことば
サムエル記下7章25節
(ダビデの祈り)神である主よ、今この僕とその家について語られた御言葉をとこしえに確かなものとし、語られたとおりになさってください。

旧約聖書に応じて選ばれた今日の新約聖書のことば
使徒言行録13章23節
神は約束に従って、このダビデの子孫から、イスラエルに救い主イエスを送ってくださったのです。
©ベテスダ奉仕女母の家『日々の聖句LOSUNGEN』より引用

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皆さん、おはようございます。
 
神はご自分の言葉に示されたその約束を、必ず果たされる御方であり、その約束は、イエス・キリストという救い主を確かに、私たちに与えてくださったことによって実現された。
 
これが、今日のローズンゲンに示されたふたつの聖句が、私たちに物語ろうとしているメッセージです。
 
有言実行という言葉があります。この言葉は「言葉と行いが一致している」、つまり「言行一致」のことを表しているものであることを、私たちは神にみることができるのです。この神の姿勢に私たちは守られ、支えられながら、今日まで神とともに歩む人間の歩みというものを、営むことが許されてきましたし、今日もそのような守りによって生かされていることを、心から感謝する者でありたいと、心から願わされます。
 
私はしばしば 「言行不一致」になることがあります。そうならないように、精一杯努め、気を付けているつもりですが、言葉の通りに行えない自分自身の姿に、気まずさや申し訳なさ、自分自身の至らなさというものを突き付けられるのです。
 
そんな時に、省みつつ私は問わされます。「自分自身の力だけで、何かを成し遂げようとしていないだろうか?」という問いです。人に迷惑をかけちゃいけないと、必死に自分自身でなんとかしようともがきながら、事を成そうとするのです。しかし結果として、かえって周りに迷惑をかけてしまうようなことになってしまうのです。そんなことを繰り返しながら、相変わらず学習しない自分自身の姿にあきれかえってしまうのです。
 
しかし、そんなあきれかえってしまうような自分自身でも、少しずつ気づかされていくのです。神に寄り頼み、神に支えてもらいながら、神が備えてくださる有形無形の助けというものを素直に受け取った時の幸いというものをです。その備えは、必ずしも私の心を喜ばせるものであるとは限りません。時には厳しいと感じるときも多々あります。
 
しかし、今日のダビデ王の祈りでも、パウロの言葉でもそうであるように、神は私たちの幸いのために、ご自分の決められた約束を必ず果たされる方であるということに、私たちは心から信頼をもって、是非応答してまいりたいと願わされます。どうか神である主が、今日も私たち一人ひとりを祝福のうちに守り導いてくださいますように。心からお祈りします。

05/06/2026

2026.6.5(金)#日々の聖句#ローズンゲン 聖書のことば

くじによって選ばれた今日のの旧約聖書のことば
詩編27編14節
主を待ち望め。勇ましくあれ、心を強くせよ。

旧約聖書に応じて選ばれた今日の新約聖書のことば
ヨハネによる福音書11章21~22節
マルタはイエスに言った。「主よ、もしここにいてくださいましたら、私の兄弟は死ななかったでしょうに。しかし、あなたが神にお願いすることは何でも、神はかなえてくださると、私は今でも承知しています。」
©ベテスダ奉仕女母の家『日々の聖句LOSUNGEN』より引用

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皆さん、おはようございます。
 
今日のローズンゲンによって選ばれた新約聖書の言葉は、イエスの友人であったラザロが亡くなってしまった時に語られた、ラザロのきょうだいマルタのイエスに対する告白の箇所です。
 
愛する者を失うという悲しみに、マルタは直面していました。そのような状況のなかで、マルタはイエスに対して、心からの信頼を投げかけました。あなたがいてくださったら死ななかったのにと。でも、あなたが神に頼んでくだされば、神はあなたの願いを叶えてくださる。マルタによるイエスへの深い信頼の念がこもっています。
 
これは、マルタの願望がイエスを利用したという話では決してありません。どんな願いであれ、イエスにとってふさわしくないと感じれば、その願いは神へ聞き届けられることはなかったでしょう。マルタの切なる願いというものが、イエスの思いにふさわしく、また合致するものであったからということを確信したからこそ、マルタは臆することなく、イエスに自らの思いというものを吐露することができたのだと、私は思うのです。
 
そこには、深い信頼の念というものが込められていました。それは単なる友人関係だったからでしょうか。究極的にそうではありません。イエスは神に委ねられた愛する隣人の存在を、神の信頼にふさわしい者としてみなし、隣人を愛するという神のおきてにしたがって、神の信頼を自分自身の生き方としていたからこその信頼関係であったということです。
 
その信頼関係にマルタが十分に呼応できたからこそ、マルタの願いが願いとして取り上げられ、イエスはマルタの願いに真正面から向き合い、かくしてラザロが復活させられたというのです。この信頼関係こそ「信仰」の本質であると、私は受け取りたいのです。
 
今日の新約聖書の言葉とセットとなったのは、旧約聖書詩編27編の言葉でした。「勇ましくあれ」「心を強くせよ」という言葉が、私たちに重荷を課すように聞こえるかもしれません。勇ましくなれない、強くなれない。これが私たち人間の偽らざる現実だからです。
 
しかし、この言葉は究極的には神の勇ましさであり強さを表している言葉に他なりません。これらが私たちの弱さを包みこむ神の信頼なのだと。この信頼に応える私たちの信頼こそが「主を待ち望む」という私たちの告白であり、具体的な行動へと導くのだと私は受け入れたい。これが今日の聖句に対する私の思いです。
 
神の信頼に応える私たちの信頼によって、神と私たち、また私たち同士の揺るぎない関係性がつくりあげられる。このことを希望の柱として、今日も神の勇ましさ、強さによって健全に歩むことができますように。皆さん、そして私自身の主にある平安と祝福を、心からお祈りします。

04/06/2026

2026.6.4(木)#日々の聖句#ローズンゲン 聖書のことば

くじによって選ばれた今日のの旧約聖書のことば
申命記30章9節
あなたの神、主は、あなたのすべての手の業を喜びとされる。

旧約聖書に応じて選ばれた今日の新約聖書のことば
テサロニケの信徒への手紙一4章6節
このようなことで、きょうだいを踏みつけたり、欺いたりしてはなりません。主はこれらすべてのことについて正しく裁かれるからです。
©ベテスダ奉仕女母の家『日々の聖句LOSUNGEN』より引用

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皆さん、おはようございます。
 
台風の影響がまだ多少残っているなかではありますが、峠は越したというところも各地であるかと思いますし、爪痕に向き合わなければならない方々もおられるかと思います。神の守りが皆さんとともに、豊かにあることを心から祈りつつ、ローズンゲンに示された今日の聖書の言葉に聴きたいと思います。
 
どうせ生きるなら、出会う人ひとに接するのであれば、そのすべてが「喜び」でありたいと願うのは、誰でも同じことと思います。しかし、私たちにとって「喜びの基準」というのは、実に千差万別、まちまちであることも私たちはよく知っています。この基準にズレがあるからこそ、私たちは自分が喜べないことで一喜一憂したり、時に人間関係にゆがみや亀裂を生んだりすることも間々あるのです。
 
私たちはそのような現実のなかで、今日の聖句をどのように受け止めることができるだろうか。そんなことを想わされました。神が喜びとされる、私たちの「手の業」とはいったいどんなことを指すのでしょうか。私はこんなことを考えました。私たちの手の業、つまり言動というものを、「私たちの占有物」のように考えてならない、ということをです。
 
私たちは「~の自由」というものを持っていますし、この日本において、それは憲法でも保障されている権利です。信教の自由、言論の自由、思想の自由などなど。しかし、それらの自由というものは、決して「濫用」されることがあっては、決してならないということも、憲法で保障されています。つまり、自由は自分の好き勝手なままに濫用することによって、それはもはや「自由」の指し示す意味が失われてしまう、ということなのだと私は考えています。
 
つまり、私たちの手の業というものを神が喜びとされるというこの事実に、私たちがいかに謙虚に向き合えるのかということが大切であるということです。私たちの自由や権利というものは、決して私たちの占有物などではなく、神の占有物なのだということを、私たちの心に刻まなければならないといことなのです。その神の占有物も、さも自分自身の占有物であるかのように思い違うならば、神の喜びというものをないがしろにしてしまうことを、私たちはしっかりと認識するところにこそ、神の喜びが私たちを支配するということを、私たちは心から信じつつ、自分に与えられた使命というものを果たせるのだと。
 
あまりにもこの世界が、古今東西にわたって神の喜びが明らかにされない状態のなかで、人と人とが無用に傷つけ合うような状況を、私たちは安易に人のせいにするのではなく、自分自身に与えられた「責任」として、神から与えられているということを、今日の私を生きる土台としたい。自戒を込めつつ、そのような生き方を営みたいと、今日の聖句を通して、あらためて願わされました。
 
神の与えられた喜びが、私たちにとっての喜びとなりますように。心から願いつつ、皆さんの一日における主にある平安を、心からお祈りします。

03/06/2026

2026.6.3(水)#日々の聖句#ローズンゲン 聖書のことば

くじによって選ばれた今日のの旧約聖書のことば
詩編146編8節
主は見えない人の目を開く。

旧約聖書に応じて選ばれた今日の新約聖書のことば
ルカによる福音書7章22節
それで、(イエスは)こうお答えになった。「行って、見聞きしたことをヨハネに伝えなさい。目の見えない人は見え、足の不自由な人は歩き、規定の病を患っている人は清められ、耳の聞こえない人は聞こえ、死者は生き返り、貧しい人は福音を告げ知らされている。」
©ベテスダ奉仕女母の家『日々の聖句LOSUNGEN』より引用

******
 
皆さん、おはようございます。
 
目の見えない人の目は開かれる。
私は昨日、受診するために眼科へ行きました。そこで医師にいくつか質問をして、私の左眼の視力は前のように戻ることは非常に難しいということを、あらためて知らされました。これ以上悪くならないための治療を、これから続けますということでした。
 
それでも、うすぼんやりではありますが、左眼が少しは見えているということ、右眼は問題なく機能しているということが、今の自分自身にとって励みとなっています。ただ、前のようには戻らないと耳にすると、どうしても胸にドスンとなにかが突き刺さるような感覚にさせられます。ああ、元のように戻ることはないんだ。何かを失うということへの喪失感というものを感じながら、昨晩を過ごしていました。
 
今日のローズンゲンの言葉は、目の見えない人の目が開かれるというものです。実際にイエスによって視力が回復する奇跡というものを経験した人もいましたし、いにしえから、信仰者たちが神に対して希望を告白する聖書の言葉には、見えない目が開かれるといった表現を数多く、私たちは見ることができます。
 
私は、今の自分自身の心境に照らし合わせながら、今日の聖句をいただくときに、たとえ物理的な視力が失われたとしても、かえって「神を見る眼」というものについて考えさせられる大きな機会をいただいているとも感じたい自分自身があることに、あらためて気づかされています。どんなことがあっても、何かが失われたとしても、私たちは神まで失ってしまうことは決してないのだ、神がなんとかしてくださる。このことゆえに、前向きに生きることを楽しもう。これが、今日の聖句を通して受け止めたいと思ったことです。
 
台風が列島を襲い、不安のなかを歩まれている方々もおられることと思います。どうか、神が私たちの不安とともに歩んでくださいますように。安全を祈りつつ、今日一日の主にある平安を、心からお祈りします。

02/06/2026

2026.6.2(火)#日々の聖句#ローズンゲン 聖書のことば

くじによって選ばれた今日のの旧約聖書のことば
ルツ記2章12節
(ボアズからルツへの言葉)
「あなたがその翼のもとに逃れて来たイスラエルの神、主から、豊かな報いがあるように。」

旧約聖書に応じて選ばれた今日の新約聖書のことば
ヘブライ人への手紙11章6節
神に近づく者は、神が存在しておられること、また、神がご自分を求める者に報いてくださる方であることを、信じていなければなりません。
©ベテスダ奉仕女母の家『日々の聖句LOSUNGEN』より引用

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皆さん、おはようございます。
今日のローズンゲンに示されたふたつの聖句を通して、私が受け止めたいと思ったのは「神による報い」です。
 
ある牧師がこんなことを言いました。「私の仕事は本当に報われない」と。その牧師は、教会の牧師として、教会での仕事はもとより、ある分野に長年取り組み続けてきた方です。その取り組みによって、多くの方々が健やかに生きるきっかけを得ることができました。とてもやりがいのある仕事だったと思います。しかし、その牧師は「私の仕事は本当に報われない」と言ったのです。私は、その牧師の言葉の真意を汲み取れずにいました。
 
確かに、世の中には報われたいという思いがあっても、その願いとは裏腹の反応に触れて、がっかりすることがあります。少しくらい報われたっていいよなと、私たち人間は思うのです。思ってしまうのです。おそらく前述の牧師も、そのような現実に多く触れてきたことと思います。だからこそ「報われない」という言葉を、偽ることなく口にしたのでしょう。
 
しかし、その牧師は、どんなに報われないと感じても、それを口にしても、その務めそのものを止めることは決してありませんでした。むしろ、嬉々としてそのことを行い続けました。報われないのであれば、やめてしまったらよいのにというふうには、決してなりませんでした。その牧師には、究極的な柱というものがあって、それが自分自身を支えてきたのだろうと私は思えてならないのです。
 
その柱こそ、「誰も報いてくれなくても、神はこの私を報いてくださっているのだ」という信仰なのだと、私は感じたのでした。実際、その牧師が本当にそう思ったのかどうかは分かりません。しかし、究極的には神が、私たちを信頼し、ご自分のみ心に生きようとする者たちに、必ず報いを与えてくださるのです。それがどのようなかたちで与えられるのかは分かりません。おそらく、人それぞれに違うのでしょう。しかし、神は見捨てないのです。私たちのあり方をご覧になられて、必ず報いを与えてくださる。
 
このことが、今日一日を生きる、私たちの柱となるように、神が立ててくださいますようにと祈りたいと思います。

01/06/2026

2026.6.1 (月)#日々の聖句#ローズンゲン 聖書のことば

くじによって選ばれた今日のの旧約聖書のことば
詩編56編11節
神によって御言葉を賛美します。主によって御言葉を賛美します。

旧約聖書に応じて選ばれた今日の新約聖書のことば
ヨハネによる福音書1章14節
言は肉となって、私たちの間に宿った。私たちはその栄光を見た。それは父の独り子としての栄光であって、恵みと真理とに満ちていた。
©ベテスダ奉仕女母の家『日々の聖句LOSUNGEN』より引用

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皆さん、おはようございます。
しばらくの間、ローズンゲン黙想をお届けできませんでしたが、今日から再開します。愛読してくださった皆さまには、本当に申し訳ない思いでいっぱいですが、どうぞこれからもよろしくお願いします。
 
このひと月半のあいだ、私を取り巻くさまざまな出来事がありました。ひとつは、私の属する日本基督教団東北教区の総会準備のため、それに多くの時間を費やさなければならなかったことです。私は昨年より書記の任を拝命しておりますが、総会準備は主に書記の仕事であることから、なかなか慣れないなかでの準備に、手間取り戸惑いつつも、なんとか先週総会を無事に終えることができました。ホッとしました。もうひとつは、ひと月前に以前から不調であった左眼が一時回復したものの、再び不調を訴えるようになりました。医者から下された診断が「急性緑内障発作」というものでした。数日で失明にいたるという、治療の緊急性が高いものでしたが、こちらは治療に入り、少しずつですが一番ひどい状態からは回復しているような気がしています。こちらは引き続きの治療が続きますが、あまり落胆することなく淡々と過ごすようにしています。
 
このひと月半のあいだ、「神様、助けてください!」と何度祈ったことかと思い起こします。限られた時間のなかで、目の前に与えられた仕事と不便のなかで、神様にSOSを発していました。しかし、どんなことがあったとしても「神様がともにいてくださるから大丈夫!」と自分自身のなかに神様の導きをしっかりと据えながら、その日々を過ごすことができた。本当に神様がおられることを自分自身の信仰として、神様からいただくことができて良かった。そんな風に思わされていますし、それが私にとっての「希望」なのだと思わされています。
 
そういう意味で言えば、今日の旧約聖書の言葉にある「御言葉を賛美する」という告白こそ、神が御自身の言葉をもって、私たちを慰め、励まし、希望を与えてくださるということに直結して、私自身の心に落ち着きと前向きな思いを与えてくださったのだと思えてならないのです。本当に感謝なことでした。そして、神が与えられる言葉が、イエス・キリストという御方の示された言葉と生き方によって、より具体的に私たちに福音書を通して与えられていることが、私の希望の源なのだとより確信をいだくようになりました。
 
私たちのために命を投げうたれただけではなく、その命が永遠にわたるものであることを、イエスは私たちに示されました。イエスが味わわれた苦しみに比べれば、私の苦しみや痛みなど、ほんのちっぽけなものなのだと思うのです(なかなか、そのように自分自身を持っていけない時があることも確かなのですが)。しかし、それは確かに私自身を活かす大きな力となっている。そんなことに希望を持ちつつ、今週のウィークデイの日々を過ごしてまいりたいと思います。
 
どうぞ、皆さんの日々にも、そして今日の一日にも、主が豊かにともなってくださいますように。神である主が与えてくださる平安と祝福を心からお祈りします。