23/02/2023

2023.2.23(木)#日々の聖句 #ローズンゲン 聖書のことば

くじによって選ばれた本日の旧約聖書のことば
エゼキエル書33章11節
立ち帰れ、悪の道から立ち帰れ。あなたがたがどうして死んでよいだろうか。
 
旧約聖書に応じて選ばれた本日の新約聖書のことば
マタイによる福音書6章13節
私たちを悪からお救いください。
『聖書 聖書協会共同訳』より引用・利用

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本日の旧約聖書と新約聖書をつなぐ鍵の言葉となるのが「悪から立ち帰る/救われる」という言葉です。このことについて、黙想を深めてみたいと思います。
 
ところで、すでにお気づきかもしれませんが、日々の聖句で使用されている聖書の言葉は、必ずしもその節の全文が収録されているわけではありません。ドイツ語原著であるDie Losungenに記載されている聖書の言葉を日本語にしているため、節の一部だけが『日々の聖句Losungen』に記載されているというわけです。本日は旧約・新約の両方が、節の一部だけが取り上げられています。
 
そういう意味で言いますと、本日の旧約聖書であるエゼキエル書33章11節の言葉にある「あなたがたがどうして死んで良いだろうか」という神の言葉が、どのようなところから来ているものなのかについて、同じ11節には、このように記されているのがとても興味深く思いました。「私は悪しき者の死を決して喜ばない」。このひと言に、神の思いというものを知ることができるのだと、私は受け止めたのです。
 
悪しき者の死を決して喜ばない。旧約聖書のなかでこのような言葉が神によって語られるのは、意外な思いすらします。なぜならば、悪しき者は罰を受け、民のなかから断たれ、そして殺される。旧約聖書が醸し出す神とは、そのような厳しさをところどころで見つけることができるからです。しかし、実際はどうなのか。悪しき者の死を決して喜ばない神がおられるとも聖書は言っているわけです。
 
考えても見れば、最初の人間夫婦を神がつくられた際、このふたりはいとも簡単に神に背を向けて、独立独歩の道を歩み始めました。神ならば、このふたりを絶やして、新たに自分に従順な存在をつくることだってできたことでしょう。しかし、神はそれをなさらなかった。どうしてなのか。究極的に、神はいのちを絶やす方ではなく、いのちを与え、育み、たとえ欠陥が生じても回復に向かわせる、そういう方なのだ。だからこそ、アダムとエバに衣を着せて、たとえ苦しくてもこの世界で生きる道を与えられた。与えられただけではなくて、ともに歩まれた。その神の思いが、本日のエゼキエル書にしたためられた言葉に相通じるような気がしてならないのです。
 
ヨハネによる福音書3章16節の言葉が思い浮かびます。
神は、その独り子をお与えになったほどに、世を愛された。御子を信じる者が一人も滅びないで、永遠の命を得るためである。
 
この言葉は、御子を信じる者だけが救われるという限定的な救いについて重きを置くよりも、ご自分が慈愛をこめてつくられた人間が、ひとりも残らずそのいのちが救われて欲しいという、神の思いに重きを置いて読んだほうが良いのではないかと思うのです。少なくとも、本日のエゼキエル書の言葉に沿って読むならばです。
 
だからこそ、私たちはこう祈ることができるのではないでしょうか。「私たちを悪からお救いください」と。イエスによって語られた「主の祈り」の一節です。悪の問題をひとりで解決することはできません。だから、救いを神に求め、祈りを教えられたイエスに求める道がイエスから与えられました。その道とはイエスが歩んだ十字架への道。その2日目を、私たちは今日歩むことができるのだと受け止めたいのです。

悪がはびこるこの世界にあっても、神による救いの思いが、この世界に広がりゆきますように。そのために、私の心の中にある悪しき思いを、どうか神が取り除いてくださり、善へと向かわせてくださいますように、祈りつつレント2日目を過ごしてまいりたいと願わされました。皆さんの一日に、救いを望まれる神の慈愛がともにありますように。お祈りいたします。

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