06/02/2023

2023.2.6(月)#日々の聖句 #ローズンゲン 聖書のことば

くじによって選ばれた本日の旧約聖書のことば
エレミヤ書19章7~10節
心は何にも増して偽り、治ることもない。
誰がこれを知りえようか。
主である私が心を探り
思いを調べる。
おのおのが歩んだ道
その業が結んだ実に応じて報いるためである。
 
旧約聖書に応じて選ばれた本日の新約聖書のことば
ガラテヤの信徒への手紙6章9節
たゆまず善を行いましょう。倦むことなく励んでいれば、時が来て、刈り取ることになります。
『聖書 聖書協会共同訳』より引用・利用

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人の目には見えなくても、すべてをご存知である神が、私たちの言動を良かれ悪しかれ、報いてくださるのだ。
 
そんなメッセージを、本日の聖書の言葉を通して私は受け取ることができました。日本では「因果応報(いんがおうほう)」という仏教が伝える考えにあたるのかなとも思ったりしますが、本日の聖書の言葉と因果応報のあいだにあえて違いを挙げるとすれば、それを個々人がすべて責任をとらなければいけないことなのか、それとも神との関係性において、自分自身のあり方というものを整えることができるのか、という風にも言えるのかなと思うのです。
 
その昔、神に背を向けて生きていたユダヤの民に、神のメッセージを伝え続けたエレミヤの言葉が、本日の旧約聖書の箇所にあたります。エレミヤは、その当時の人々の姿を包み隠すことなく明らかにします。人間はいかに邪悪な心をもって生きている存在なのだろう。そのようにエレミヤは人々に告げるのです。私自身の心も、どんなに神様を知っていたとしても、よこしまな思いがすべて消え去っているわけではありません。神からいただいた良いものと、自分のうちにある悪いものが心の中でつねに戦っているのです。そういう意味で言えば、私の心はエレミヤの時代とそう変わっていないことを思わされるのです。
 
そんな私の思いを、神が探り、その心を調べるのだとエレミヤは言います。なんか神に監視されているような印象を受けるかもしれません。カルト宗教などは、そういった言葉を巧みに利用して、リーダーが人々の心を束縛したりするのですから、このようなエレミヤの言葉に対しても、ある種の恐ろしさのようなものを感じるかもしれません。
 
しかし、逆のことも言えるのだと、私は受け止めました。たとえ人には理解されないこと、さまざまな誤解や行き違いが生じて、真意が伝わらないときに、神はそんな私の心というものをすべてご覧になられ、ご存知である方であるということも、本日の聖書の言葉が与える慰めなのだと私は思えてならないのです。人に理解してもらえなかったとしても、神がご自分の目をもって私を取り扱ってくださるならば、それだけで安心できるのだと。この安心こそ、この世の中を生きるために無くてはならないことなのだと、そう思うのです。
 
本日の新約聖書の言葉で「たえず善を行いましょう」とあります。この善行を「倦むことなく励んでいれば」、つまり諦めることなく、飽きることなく、誰にも理解してもらうことなかったとしても、神との関係においてただ誠実に生きようとするならば、その思いをご存知である神が、必ず良いように報いてくださるのだと。たとえ自分自身ではあまりにも負いきれない重荷であったとしても、神は必ず私の心をともに担ってくださり、良い果実を刈り取ることができるように、共に働いてくださる御方なのだと信じて歩みたい。そのように願わされた本日の聖書の言葉でした。
 
皆さんの思いが、たとえ悪いものであっても良いものであっても、それをご自分の公正をもって取り扱い、また私たちだちに必要なことを教え諭してくださる神が、今日も皆さんの生活に寄り添ってくださることを、私たちの希望とすることができますように。心よりお祈りいたします。

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