28/02/2023

2023.2.28(火)#日々の聖句 #ローズンゲン 聖書のことば

くじによって選ばれた本日の旧約聖書のことば
詩編130編1~2節
主よ、深い淵の底からあなたに叫びます。
わが主よ、私の声を聞いてください。
 
旧約聖書に応じて選ばれた本日の新約聖書のことば
ルカによる福音書18章38~39節
盲人は、「ダビデの子イエスよ、私を憐れんでください」と叫んだ。先に行く人々が叱りつけて黙らせようとしたが、彼はますます、「ダビデの子よ、私を憐れんでください」と叫び続けた。
『聖書 聖書協会共同訳』より引用・利用

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四旬節(レント)6日目を迎えました。
 
本日、私たちのために選ばれた聖書の言葉は、私たちの「切なる祈り」について、その大切さを私たちに教える聖書の言葉であると、私は受け止めました。神は、私たちの真剣な叫びに、必ず耳を傾けてくださる御方であることを、これらふたつの聖句は私たちに伝えます。
 
極論を申し上げれば、私たちが祈っても祈らなくても、神は私たちの必要というものをすべてご存知なのだと私は思っています。私たちが祈らないからと言って「わしゃお前のことなど知らん」という方ではないと、私は考えています。だからと言って、では、私たちは祈らなくて良いのかと言えば、そんなことは絶対になく、やはりそれでも、神に自分の心を向けて祈ることは、本当に大切なことなのだと私は思います。
 
本日の新約聖書の言葉にありますが、イエスを前にしてひとりの盲人は「私を憐れんでください」と叫びました。周囲は、彼の叫びを制止しようとします。しかし、人の制止くらいで、その人の叫びはとどまりません。そしてイエスは、彼の叫びに応えられました。彼の視力は回復したのでした。
 
私はこのエピソードに触れるたびに、盲人の叫びを制止し、黙らせようとした人々のことを思わされます。どうしてこの人たちは盲人の悲痛な願いをシャットアウトしたのだろうか。よほどうるさく、うっとうしく感じたからなのか、あまりにもイエスを気遣う人たちが、イエスを煩わせたくないという親切心から起きた行動なのか、聖書の言葉にある文中だけでは、それを察することはできません。
 
しかし、ここではっきりと言えるのは、人々は盲人の祈りというものを判定し、結果としてそれを妨げたという事実があったということです。しかし、そのような人たちの判断があったのにもかかわらず、イエスはそれとは裏腹の行動を盲人に対して向けられた。ここに、人々の感覚というものとイエスの心にズレがあったことが分かります。
 
私はここから学びたいと思いました。どんなに神の御心だと信じて行動したとしても、それがイコール神の御心であるとは限らないということをです。だからと言って、神の御心は分からないのだから、何もしなくても良いのか。盲人は、やはり祈った結果、神の御心と遭遇することができたし、自分の視力が癒されることによって、神と出会うことが可能とさせられたのです。やはり、神に祈るという行動が、神を知り、理解するうえで無くてはならない私たちの営みなのだと、あらためて思わされるのです。
 
たとえ私たちの判断が神の御心と違っていたとしても、神はご自分の御心というものを明らかにしてくださることにより、私たちの側がそれを受け止めることが大いに許されているのです。神の御心こそベストであることを、私たちがしっかりとキャッチする者でありたいと、本日の聖書を通して感じさせられた次第です。
 
今日も神に自分の思いをさらけ出して、祈り、願うことができますように。そのようななかで示される神の御声に、謙遜な思いをもって聴くことができますように。祈りつつ、レント6日目の一日を過ごしてまいりたいと思います。皆さんの一日にも、神の守りと祝福が豊かにありますように。お祈りいたします。

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