25/02/2023

2023.2.25(土)#日々の聖句 #ローズンゲン 聖書のことば

くじによって選ばれた本日の旧約聖書のことば
ホセア書4章1節
主の言葉を聞け。
この地に住む者を主は告発する。
この地には真実も慈しみもなく
神を知ることもないからだ。
 
旧約聖書に応じて選ばれた本日の新約聖書のことば
ヤコブの手紙1章5節
あなたがたの中で知恵に欠けている人があれば、神に求めなさい。そうすれば、与えられます。神は、とがめもせず惜しみなくすべての人に与えてくださる方です。
『聖書 聖書協会共同訳』より引用・利用

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四旬節(レント)4日目を迎えました。
 
真実もいつくしみも失われた世界に、神による告発が臨むという言葉を聞いた時に、私たちはどのような反応を起こすだろうか。本日の旧約聖書の言葉に触れ、そのようなことを感じたのです。
 
決して、それを喜んで受けようとかという気分にはなれないのではないか。私はそう思いました。どちらかと言えば、神の怒りに対する恐れのようなものが私を襲う。それが、この言葉を聞いた時に起きる、ごくごく「普通の」反応なのかもしれません。
 
そのようななかで、預言者ホセアは神の告発の言葉が臨む理由を「神を知ることもないからだ」と告げています。私はこの言葉はまさに、私たち人間の心のうちを表しているひと言だと思ったのです。それは「無知ゆえの恐れ」というものなのかもしれないと。

知らないがゆえに不安になる、恐ろしく感じるということが、私たちにはあると思います。だから少しでも多くの情報を集めて、私たちはその情報を安心するための材料にしたりする。私たちが無意識のうちに取っている行動です。しかし、神を知るということになると、途端に及び腰になる人間の姿があるかもしれない。怒りや罰を受けるのではないかという恐れゆえにです。神を知り、神を信じるということが、怒りという鎖に束縛されているような気持ちになるのです。だから、神をあがめる宗教は、窮屈なことを私たちに強要しているように感じるのかもしれません。これが一般的な人たちの考えなのかもしれません。
 
しかし、それこそが知らないがゆえの無知がもたらすことなのではないか。私はそのように感じさせられました。本日の新約聖書の言葉である、ヤコブの手紙1章5節には、神の知恵とおいうものについて語られ、それを求めることの幸いについて語られています。
 
では、神の知恵とはなにか。「神は、とがめもせず惜しみなくすべての人に与えてくださる方」。私は「とがめもせず惜しみなく」という言葉に引き寄せられました。私たちは、神による怒りであるとか災いというものを、意外に自分自身のなかで勝手につくりあげ、怒りの神のイメージを神に押し付けているのではないだろうか。そう思ったのです。
 
宗教にも責任があります。神の真実であるとかいつくしみ、そこにしっかりと流れている愛が何であるかを示す前に、信じなければ、さもなくば的な条件をつけて、神による災厄をちらつかせることに熱心になっているとするならば、神を知ることを遠くさせているのではないだろうかと、自戒を込めて思わされたわけです。
 
とがめもなく惜しみなく。私たちにご自分の知恵を授け与えてくださる神を知ることの幸いを思います。そういう意味で、神の本質を知る一日でありたい。神を勝手につくりあげてしまう私の罪というものを見つめていきたいと願わされました。明日の主の日に向けて、自分自身を神の知恵によって整えるときとなりますように。皆さんの一切に、主なる神の守りと祝福をお祈りいたします。

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