08/02/2023

2023.2.8(水)#日々の聖句 #ローズンゲン 聖書のことば

くじによって選ばれた本日の旧約聖書のことば
詩編33編21節
主によって私たちの心は喜ぶ。
まことに、私たちは聖なる御名を頼みとする。
 
旧約聖書に応じて選ばれた本日の新約聖書のことば
テサロニケの信徒への手紙5章16~17節
いつも喜んでいなさい。絶えず祈りなさい。
『聖書 聖書協会共同訳』より引用・利用

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いつも喜んでいなさいという聖書の言葉が、逆にプレッシャーに感じる。そんな声を聴いたことがあります。このような聖書の言葉を持ち出しては、思い悩み、気持ちが沈んでいる方々に対して「いつも喜んでいなさいと聖書に書いてあるでしょ!」と言われても、喜べないことだったあるのだと。それを神はどのようになられているのかと思うと、喜ばなければならないのかとプレッシャーになるという話でした。
 
確かに、この聖書の言葉を神の言葉として受け止めるときに、ある種の圧力を感じることがあるならば、神は自分の気持ちというものを押し殺しても喜ばなければならないことを期待しておられるのか、そんなことを考えさせられます。もし、聖書の言葉を盾にして、悲しみのなかにある方々にプレッシャーを与えるような用い方をするのであれば、それはあまりにも暴力的だろう。私はそう思えてならないのです。
 
だからこそ、喜びという聖書にしばしば登場するこの言葉について、じっくりと黙想したいと思いました。喜びを与えられる神は、どのようにその喜びを私たちに分け与えられるのだろうかということをです。
 
喜ぶことは、から元気を示してでも喜んでいる様子をアピールすることではないと私は考えています。熱烈な祈り、心が躍動するような賛美、活動的な様子を見ることで、そこには何となく喜びのようなものが存在しているように、私たちには見えるのです。そう見てしまうのです。もちろん、それが喜びから生じていることもあるのを、私たちは知っています。
 
しかし、そういう空気のなかに、喜べない思いに満たされた人たちにとっては、居場所がありません。取り残されたような気持ちにさせられるばかりか、この自分の姿を神は喜んでおられないのではないか。そのような罪悪感のようなものを抱えたまま、人々のあいだに居続けなければならない。そこにも神の喜びがあるとすれば、それは一体何なのだろうか。そんなことを考えさせられるのです。
 
私たちは、神が私たちとともにおられる、私たちの神としてともにおられる。ご自分のお名前に示された意味(「わたしはいる」)を私たちの頼みの綱とすることができるのだ。本日の詩編の言葉に示された、詩人の思いです。私たちがたとえ喜べなくても、いや、だからこそ神を頼みとすることができるのです。神を頼るということが、即喜びを実感できるような私たちの姿にはならないかもしれません。しかし、頼みとされた神は必ず、私たちに喜びを与えてくださる。「主によって」という詩人のひと言に、神への深い信頼をうかがうことができるのだと、私は受け止めたいのです。
 
ですから、今は喜べなくても良いのです。周りがどんなに喜ぶことを迫っても、そのような空気が取り囲んでも、まったく気にする必要がないのだと私は思います。神が、その人にとってベストタイミングというものを必ず設けてくださり、心の底から、じんわりと感じることができるような喜びを与えてくださる。そういった喜びは、私たちを生かす源となるのだということを希望して、今日の一日を歩みたいと願わされました。
 
もし喜ぶことが難しい一日を迎えられたならば、それでも神は私たちとともにおられ、私たちのための好機というものを考えておられるのだ。そのことを一日の希望とすることができますように。お祈りいたします。

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