09/02/2023

2023.2.9(木)#日々の聖句 #ローズンゲン 聖書のことば

くじによって選ばれた本日の旧約聖書のことば
ゼファニヤ書1章7節
主なる神の前に静まれ。
主の日は近づいているからだ。
 
旧約聖書に応じて選ばれた本日の新約聖書のことば
マタイによる福音書24章44節
だから、あなたがたも用意していなさい。人の子は思いがけない時に来るからである。
『聖書 聖書協会共同訳』より引用・利用

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ご存知の方も多いかと思いますが、私は10代の後半から20代前半にかけての数年間を「エホバの証人」信者として過ごした経験があります。安倍元首相銃撃事件以降、カルト宗教がクローズアップされるようになったのにともなって、エホバの証人のことも取り上げられるようになりましたので、私も改めてエホバの証人時代のことを振り返る機会が多くなりました。
 
エホバの証人の特徴はいろいろあるのですが、そのひとつに「終末待望」というものがあります。近いうちに「世の終わり」が来ることを、エホバの証人はその誕生(19世紀後半)以降、変わることなく主張しています。まさに、本日のローズンゲンに示された類の聖書の言葉を、エホバの証人は自分たちの信仰を根拠づけるものとして強調しています。
 
もちろん、キリスト教が大切にしてきた信仰には、定められた日にこの世の終末が訪れるとともに、キリストが再臨して、神の国が完成するというものがあります。神の国が完成することによって、永遠が確実なものとなる。だから、世の終末と言っても、何もかもなくなるわけではなく、新しい、永遠たる神の世界が訪れることを意味しているわけです。
 
エホバの証人時代、この終末を乗り越えて神が与えてくださる永遠を得るべく、エホバの証人組織の示すことを忠実に守り続けることが要求されました。さもなくば、突然訪れるかもしれない終末に応ずることができない。だからこそこの終わりの時に熱心に伝道をし、ひとりでも多くの人をエホバの証人にしなければならない。そんな使命が常に切迫されているような中で、毎日を過ごしていたことを思いだすのです。
 
今思えば、そのようなアプローチがいかに「カルト」的なものであったかということを、容易に実感することができるわけなのですが、その当時は生き残るために必死だったという言い方が正確かもしれません。結局私は組織のなかで忠実な信者になれず、落ちこぼれていくわけですが、それでも信者時代の切迫感のようなものに、その後もしばらく悩まされることになりました。
 
そんな遍歴があるものですから、本日のような聖書の言葉に出会いますと、さて、この言葉をどのように私は受け止めたらよいのだろうか、そのたびに思わされるのです。そんななかで、本日の旧約聖書の言葉はまさに、私にとっては慰めとなるものでした。
 
主なる神の前に「静まれ」と、聖書の言葉は伝えます。
主の日が近いからこそ、がむしゃらになるのではなく、切迫感に囲まれるがゆえにあたふたするのでもなく、ただただ冷静に、ただ静まって神の前に座する。そんなイメージが私を心を突き抜けました。
 
切迫感のあるときだからこそ、ただ静まることの大切さ。じっと神の声に耳を傾けて、本当に大切なことを識別し、見極める冷静さを神からいただくことの大切さと幸い。そんなことを思ったのです。何かにあおられるように自分自身を動かすのではなく、黙想をすることで神を見つめる思いを、私は是非養いたいと、本日の御言葉から願わされました。
 
その結果、適切に備え、安全な場所に逃げるもよし、適切な判断に基づいた行動を取ることができるのだと感じます。その思いが神から与えられた時に得る幸いというものを、今日も大切にすることができますように。皆さんの一日にも、そして私の一日にも。

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