20/05/2022

2022.5.20 #日々の聖句 #ローズンゲン 聖書のことば

くじによって選ばれた本日の旧約聖書のことば
詩編38編5節
私の過ちは頭を越えるほどにもなり
重い荷物のように重くのしかかります。
 
旧約聖書に応じて選ばれた本日の新約聖書のことば
コロサイの信徒への手紙2章14節
数々の規則によって私たちを訴えて不利に陥れていた借用書を破棄し、これを十字架に釘付けにして取り除いてくださったのです。
『聖書 聖書協会共同訳』より引用・利用
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もちろん、自分自身のうちにある「罪」の問題を、真剣に考えることは大切なのだけど、そこから抜け出せないのも、やっぱり問題なんだよね。
 
昨日会ったクリスチャンの友人が、そんなことを言っていました。どういうことかと言うと、私はこういう悪いことをしました、ああいう罪を犯しました。どうしようもない罪人ですと、まるで罪の自慢披露会みたいに、祈りの言葉をつむぐ人がいるのだそうです。それは真剣な罪の告白というよりは、お題目のように決まりきった罪の言葉を祈らなければ祈りじゃないというところから、結果的に罪の自慢合戦になってしまうのだと。
 
その友人は続けて言います。結局のところ、その人が罪の告白を真剣にしているかどうかは、その人がイエスの生き方を自分の生き方としようとしているかどうかなんだよねと。まことにアーメン!その簡潔たる言葉に、思わずうなってしまいました。
 
今日の旧約聖書の言葉に示された罪の告白の言葉は、真実かつ真剣なものなのだと私は思います。頭を越えるくらい自分自身ではどうにもならない過ちをおかす、または遭遇したことに、私たちは少なくとも一度二度経験したことがあるのではないでしょうか。
 
自分ではどうすることもできない問題課題に直面したときに、私たちは別に罪を犯したわけではないけれど、それは世界を罪が支配しているからこそ、悩み、苦しみ、のしかかる重荷を背負わなければいけない。たとえ自分は悪くないと思ってもです。
 
罪の告白に生きるとは、この問題課題に向き合って生きること。しかし、自分自身で抱えることの難しさがあるからこそ、今日の新約聖書の言葉にもあるように、すべての借用証書を破棄してくださって、借財が清算された状態で新しい人生を歩むことができるようにしてくださった方に、自分自身の重荷を委ねることなのだと。
 
借財を帳消しにしてくださった方こそ、イエス・キリストだというのです。そのイエスが、言われました。「すべて重荷を負って苦労している者は、私のもとに来なさい。あなたがたを休ませてあげよう。私は柔和で心のへりくだった者だから、私の軛を負い、私に学びなさい。そうすれば、あなたがたの魂に安らぎが得られる。私の軛は負いやすく、私の荷は軽いからである。」(マタイによる福音書11章28~30節)
 
私は今日の黙想を通して、自分自身の罪の告白というものを捉えなおす良いきっかけをいただいたと思わされました。自分に与えられた分をもってイエスの弟子として生きること。しかし、そのためにこそ、イエスによる赦しと助けがあるのだと。
 
悩み苦しみが跡形もなく私から消え去ることはありません。しかし、それを担いやすくしてくださる方が確かにおられる。イエスの御心に生きるところにこそ、罪の告白を自虐的にではなく、積極的に受け入れてつつ、希望をもって生きていくことができるのだと。そんな一日でありたいと願わされました。
 
今日一日の歩みの一切に、そのようなイエスの豊かな助けがともにありますように。お祈りいたします。
 

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