15/05/2022

2022.5.15 #日々の聖句 #ローズンゲン 聖書のことば

くじによって選ばれた本日の旧約聖書のことば
ヨエル書3章5節より
主の名を呼び求める者は皆、救われる。
 
旧約聖書に応じて選ばれた本日の新約聖書のことば
使徒言行録4章12節
ペトロはイエスについて、このように述べています:
この人による以外に救いはありません。私たちが救われるべき名は、天下にこの名のほか、人間には与えられていないのです。
『聖書 聖書協会共同訳』より引用・利用
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主の名を呼び求める。そうです。名前を呼び求めます。
 
私がかつてエホバの証人であった頃、その団体は「神の名はエホバである」ということを強調し、その名前を呼び求めることにこだわりを持っていました。だから、自分たちのことをエホバの証人と呼ぶまでになるわけですけれど、私はその時のことを振り返って、こんなことを思わされました。
 
神の名はエホバであることは知っている(実はエホバという発音ではないということは明らかです。理由はまた別なところで語りたいとは思いますが)。「私はある」という意味であることも聞いたことがある。しかし、そこにどのような「意味」があるかは、深く考えたこともなければ、詳しく教わったこともなかった。
 
つまり、どんなに神の名を知っていたとしても、名前に込められた意味というものが、私の生き方にどのように影響しているか、良いものをもたらすかということを知らずして、理解を深めること無くして神の名を機械的に呼び続けていたとしても、そこには一体何の意味があるのだろうかと。そう思うのです。
 
自戒を込めて申し上げれば、私たちは教会という世界に長くいればいるほど、教会だけでしか通用しない言葉に慣れてしまうばかり、人並みに祈ることもできれば、それらしい信仰者の言葉をつむげるかもしれません。しかし、どうでしょう。その言葉には神の真実はあるのだろうか。条件反射のように、こう来ればこの言葉を発せればただ悦に浸っているだけなのではないだろうか。
 
主の名を呼び求めるとはつまり、このような問いの上に初めて成り立つ言葉なのだろうと私は思わされます。神の持つ「主(ヤハウェ)」という名前は、「私は神であり、あなたがたと共にいることで、あなたの神となる」という、実は私たちに対する呼びかけであることを知らされます。そう。私たちが神を呼ぶ前に、神が私たちを呼んでくださる。この呼びかけに「聴き、信じ、従います」と答え応じるところにこそ、救いがある。そのように、今日の旧約聖書の言葉に聴くことができるのだと、黙想させられます。
 
そのような黙想を土台として、神が与えてくださる真実の言葉を祈りつつ語る者となりたい。忖度(そんたく)のないそういう言葉にこそ、救いの喜びがあることを信じつつ。週の初めの日のこの一日が、皆さんにとって素敵なときとなりますように。お祈りいたします。

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