26/05/2022

2022.5.26 #日々の聖句 #ローズンゲン 聖書のことば

くじによって選ばれた本日の旧約聖書のことば
詩編92編14~15節
主の家に植えられ
我らの神の庭で茂る。
年老いてもなお実を結ぶ
命豊かに、青々として。
 
旧約聖書に応じて選ばれた本日の新約聖書のことば
ヨハネによる福音書16章22節より
イエスの言葉:
私は再びあなたがたと会い、あなたがたは心から喜ぶことになる。その喜びをあなたがたから奪い去る者はいない。
『聖書 聖書協会共同訳』より引用・利用
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今日の旧約聖書の言葉のなかで「年老いてもなお実を結ぶ/命豊かに、青々として。」という一文に、深い感銘を覚えることができました。そのあたりのことを黙想しながら、筆を進めてみたいと思います。
 
この聖書の言葉の前提にあるものは、「主の家に植えられ/我らの神の庭で茂る。」という言葉です。神の家、その庭園で神御自身によって植えられて、神の手入れによって豊かに繁茂する植物のイメージです。これが、神の民の姿そのものであると、詩人はうたいました。
 
つまり、人間は「神のかたち」としてつくられた、まさに神の作品です。私たち自身が自分自身を自分なりに育てたのではなく、あくまで神のデザインのなかで育てられるというのが、聖書における人間の成長観というものです。だからこそ、神の庭で茂り、枯れかかると思われるような時期、つまり老齢の衰えを感じるようなことがあったとしても、神が青々と茂り続け、実を結び続させることが可能なのだと、今日の聖書の言葉は私たちに知らせていると思うのです。
 
神のもとで丁寧に、じっくりと育てられることによって、いつまでも新鮮な気持ちでいることができる。そこには、キャリアの有無や蓄積はあまり関係ないのではないか。今日の聖書の言葉を通して、そのように黙想させられます。「年老いてもなお実を結ぶ」という一文からの黙想です。
 
具体的には、長年クリスチャンであるからといって、自分の経験や知識を誇ったり、優劣をつけるための材料にする理由はどこにもないのだと。神が日々、クリスチャンとして生きるための養分を注いでくださるからこそ、日々改革される者として、神の民として生きていくことが、いわゆる「年老いてもなお実を結ぶ」ということの意味なのだと、私はそう思わされました。
 
最近「聖書的な議論」ということをテーマとした、雑誌の特集記事に出会いました。そのなかで、なぜ聖書的な議論ができないかという問いに対するふたつの答えが書かれてありました。ひとつは「空気を読む」、もうひとつは「上下の序列」というものでした。私は改めてなるほどその通りと思わされました。
 
もし、場の空気をつくるならば、年長者や経験者のご機嫌を損ねない空気の読みではなく、私たちがみんな、神から聖書の言葉と聖霊の助けによって、育てられているんだというセンスこそ全体的な場の空気になれば良いと思いますし、そういう空気の流れるところには、人間同士に何かの理由をつけて序列や優劣をつける必要はなくなるということなのでしょう。その空気こそ、聖霊なる神が吹く風、空気なのだと私は思わされます。
 
そして、そこには必ず、イエスと出会うという喜びがあって、この喜びこそ、私たちが神によって豊かに成長させられるためには、無くてはならないものなのだと。そのように思い、また願いつつ、今日の一日も主なる神にあって新鮮な思いで過ごしてまいりたいと願わされました。
 
主よ、あなたに養われ、育てられ、聖霊の風をいっぱいに受けながら、イエスと出会う経験こそが、神の庭のうるわしさである。その庭の美しさゆえに、今日も喜ぶ者とならせてください。イエス・キリストのお名前によって。アーメン。

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