詩編40編18節より
私は苦しむ者、貧しい者。
わが主が顧みてくださるように。
旧約聖書に応じて選ばれた本日の新約聖書のことば
ローマの信徒への手紙5章5節より
この希望が失望に終わることはありません。
『聖書 聖書協会共同訳』より引用・利用
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本日の新約聖書の言葉であるローマの信徒への手紙5章5節は、『聖書 新共同訳』では「希望はわたしたちを欺くことはありません」と訳されていた言葉です。
わたしたちは誰かに欺かれることによって失望を味わいます。希望が失望に変わってしまうような経験というものを、私たちは誰もがしたくありません。希望や期待は願わくばそのようになって欲しいと願うのは、当たり前のことと言えます。
しかし、私たちの生活する人間社会には、実に多くの失望があります。期待外れだった、裏切られた。そんな思いが人と人とのあいだを飛び交うときに、相手に失望し、どうしてくれるんだと、その相手に失望する。そんなことを私たちはいやというほど経験するのです。
ただ、どうでしょうか。よくよく考えてみれば、私たちの希望や期待というものが、一体どういうことを根拠として起きているものなのか。そのことをじっくりと考えるのは、本当に大切なことなのだと思わされるのです。私たちが希望や期待を持つというのは、場合によっては、実に独りよがりなもので、期待を寄せるという行為そのものが、実は期待する相手への押し付けだったり、支配への序曲であったりするのではないだろうか。そんなことすら考えてしまいます。
そんなことを踏まえて今日の聖書の言葉を読むならば、イエス・キリストへの希望が失望に終わることがないという言葉の意味というものを、深く考えさせられるわけです。イエスに期待して、自分の思い通りにならなかったからと言って、それが即失望につながるものなのだろうか。もし、私たちがそのように考えてしまうならば、それは非常に短絡的で、自分勝手の何物でもないと、私は自分のこととして黙想させられます。
イエスの御心は、私たちの願望とかかわりなく、私たちにベストな道を与え、示されます。それが私たちの希望に沿わないからと失望することがあったとしても、長期的な視点では、結果として、神がそのように指し示してくださったおかげで、私たちは神のよき力にしっかりと守られながら生きることができるのだと、強い確信を抱くことができる。神の民の歴史は、そのことへの気づきの歴史として、今日に至っているのだ。そのように思うのです。
だから、この希望が語られる前に手紙の筆者であるパウロはつづりました。「苦難が忍耐を生み、忍耐が品格を、品格が希望を生むことを知っているからです」(5章3~4節)
私たちが主の御心に生きようとするときには、人間社会で生きている以上、必ず苦しみや忍耐がともないます。しかし、その先には神が必ず私たちを希望にあふれる状態にしてくださることを握りしめて、今日の一日を歩んでまいりたいと願います。
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