19/05/2022

2022.5.19 #日々の聖句 #ローズンゲン 聖書のことば

くじによって選ばれた本日の旧約聖書のことば
詩編77編10節
神は恵むことを忘れ
怒りのあまり憐れみを閉ざされたのか。
 
旧約聖書に応じて選ばれた本日の新約聖書のことば
ローマの信徒への手紙5章20節より
罪が増したところには、恵みはなおいっそう満ち溢れました。
『聖書 聖書協会共同訳』より引用・利用
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善人なおもて往生(おうじょう)を遂(と)ぐ、況(いわん)や悪人をや。
 
鎌倉時代の仏教家である親鸞が、代表作『歎異抄(たんにしょう)』に綴った一文です。よい行いをする少数の善人でさえも極楽に行けるのだから、仏の救いに頼るしかない大多数の無力な悪人が救われるのはいうまでもないことだ、という意味です。
 
私は、今日の新約聖書の言葉に触れたときに、まさにこれだ!と思わされました。そのうえで、このローマの信徒への手紙にしたためられた言葉の意味を黙想したいと思います。
 
罪が増したところには。ここで言う罪とは神に背を向けることであり、神を必要としなくても生きていけるという、人間の態度全般のことを指します。その結果、誤った判断をくだしてしまうがゆえに、一般的に罪と言えるさまざまな言動に発展する。
 
聖書で言う罪とは、神との関係性の破れゆえに起きるものであり、この破れが悪を生み、ますます世界に増大させる。それは、この手紙を書いた2000年前もそうですし、さらにさかのぼること3000年前に歌われた詩編の時代も、今日のような神の怒りにまつわる歌が歌われるわけですし、現代の世界でも、同様のことが言えるのだと。
 
昔も今も何も変わっていない、人間の持つ基本的な罪、そして悪。しかし、だからこそ、神はこの悪人たちに、この世の悪に、ご自分の良いものを満ちあふれさせるのだというのが、今日の新約聖書に込められたメッセージです。
 
私たちが善人だから、神は恵まれたのではない。私たちが今なお神から離れ行く者だからこそ、そうすればするほど、神が人間を憐れみ、恵まれる。こうして罪の破れから、恵みの連結へと、私たちを導かれる方。その方こそ神なのだと。
 
歎異抄にある善人とは、いわゆる善行を積んだ者のことを指すわけですが、おそらく親鸞が言いたかったのは、仏につながれていなければ善行すらできない。だからこそ、悪人には仏の慈悲というものが多くの悪人を救うという言葉へとつながっていくのでしょう。まさに自己正義ではなく、仏に帰依(きえ)することの心構えについて、述べているものなのだろうとつくづく思わされます。
 
私は思います。日本はいわゆる仏教国であるから、キリスト教、いわゆる福音が浸透しないのだと。しかし、本当にそうだろうか。私はこういう共通項があることを大いに喜びたいと思うのです。決してキリスト教が、日本の風土に馴染まないものだとは決して思えません。日本人のメンタリティにも、キリスト教的なものの考えは十分に通じるものなのだと、私は思うのです。
 
日本で宣教をするというのは、すべて排他的に物事を処理するのではなく、こういう共通項を十分理解したうえで、自分に与えられた福音宣教という業に、神の知恵と力によって歩み、励んでいくことなのだと。実は、自分自身のうちにある排他的な思いこそ、罪の何物でもないと思わされるのです。
 
今日は仏教と絡み合わせながら黙想したわけですが、「仏教は異教だから悪」と即断に導くような、熟考のない排他的な言動を吐いてしまうことのないように、それだけでなく、自分の基準や好き嫌いで、それに沿わないことを意味なく排除してしまうことのないように、神の恵みによって今日も生きたいと願わされました。
 
神の恵みによる互いを敬う心を神様、今日も私に与えてくださいと祈ります。その心こそ、主の平安そのものであることを信じつつ。

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