10/05/2022

2022.5.10 #日々の聖句 #ローズンゲン 聖書のことば

くじによって選ばれた本日の旧約聖書のことば
エレミヤ書31章34節より
もはや彼らは、隣人や兄弟の間で、「主を知れ」と言って教え合うことはない。小さな者から大きな者に至るまで、彼らは皆、私を知るからである――主の仰せ。
 
旧約聖書に応じて選ばれた本日の新約聖書のことば
ヨハネによる福音書6章28~29節
そこで彼らが、「神の業を行うためには、何をしたらよいでしょうか」と言うと、エスは答えて言われた。「神がお遣わしになった者を信じること、それが神の業である。」
『聖書 聖書協会共同訳』より引用・利用
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今日、私たちに与えられた聖書の言葉は、あらためて「神を信じる」とはどういうことかを、深く考えさせられる言葉であると私は受け止めました。具体的には、信仰とは「私の業」ではなく「神の業」である、というひと言に尽きる、ということです。
 
信仰というと「この私が」神を信じることであると、私たちは誰でも考えると思います。それは間違いないことです。しかし、信仰の主体、つまり信じるということの主人公は、実は私ではありません。あくまで、信じる対象こそが主体、主人公であるという事実を忘れていけないのだと、今日の聖書の言葉を通して、私たちにイメージを与えます。
 
つまり、信じるという行為は、ときには人を傲慢なものにさせてしまうのではないかと思うのです。つまり自分を信じること、すなわち「自信」へとつながっていくことで、そのことが神を信じる以上に強くなってしまうというのです。その結果、神を信じるということが、神の御心に生きるということに主眼を置く以上に、神を信じる自分自身のやりたいように生きることが、信仰の主体となってしまう。つまり、神が主体であるよりも、自分自身が主体になってしまうというのです。
 
今日の旧約聖書に記された言葉は、神がご自分の民に対して新しい契約を結ぶと宣言しておられる箇所ですが、それは、かつて民に授けられた「律法」を守り行うことで、神の民として保証されるといった内容のものではありませんでした。何かをすればよい、一生懸命おこなえばそれで自信を抱くような信仰のありかたではない、新しい契約を神は提示されました。
 
それは具体的には、イエス・キリストの御心が、救い主として私たち一人ひとりの心に宿るときに、それそのものが信仰であり、イエスの心をもって生きることこそ、神の業を自分の生き方とすることができるのだと。これが今日の新約聖書において、イエスが弟子たちに告げられた言葉でした。この生き方は、私を主体とする生き方でなく、イエスを主体として生きる生き方であることに気づかされます。
 
あくまでイエスを中心として生きる幸い。この幸いを信じて今日も歩んでまいりたいと願わされました。皆さんの一日にも、そのような幸いが豊かにありますように。お祈りいたします。

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