24/05/2022

2022.5.24 #日々の聖句 #ローズンゲン 聖書のことば

くじによって選ばれた本日の旧約聖書のことば
イザヤ書64章8節
どうか主よ、激しくお怒りにならないでください。
いつまでも過ちを覚えていないでください。
御覧ください。私たちは皆、あなたの民です。
 
旧約聖書に応じて選ばれた本日の新約聖書のことば
ヨハネの手紙一2章1節
私の子たちよ、これらのことを書くのは、あなたがたが罪を犯さないようになるためです。たとえ罪を犯しても、私たちには御父のもとに弁護者、正しい方、イエス・キリストがおられます。
『聖書 聖書協会共同訳』より引用・利用
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徹底的に叩く、叩き続ける。叩こうとする者の気が済むまで、完膚なきまで叩きのめす。
 
このような世の中の動きというものを目にすることがありますし、私たちの身の回りでもそのようなことが起き、気づかぬ間に私たちもまた叩こうとする者の一人になることがあれば、徹底的に叩きのめされて行き場を失ってしまうようなこともあったりします。
 
なぜ叩きのめすのか。私はそのことを黙想しました。そこには自覚してもしていなかったとしても、根本的な「怒り」というものが、人間を支配しているからなのだ。では、私の場合、根本的なところでの怒りとは何だろうか。自分の胸に当てて振り返るときに、理解してもらえない、誤解、赦されていない感情をぶつけられた時、それを行動で示されたとき、その記憶、記憶からくるトラウマ。それが怒りに結び付くのだと思わされます。

怒りは正義の思いから生じることがあります。しかし、私のうちにつくられている正義の定義も、その多くは私の生い立ちであるとか経験したことに基づいていて、怒りの痛点のようなものに遭遇した時に、怒り、その怒りを解消するために叩く。気が済むまで叩き続けるのだと。
 
しかし、いくら叩き続けたからと言って、すっきりとするかと言えば私の場合そうではない。むしろ、嫌な思いがなお自分を縛り続けるのです。おそらく怒り続ける、叩き続けることでは、その怒りが解消されることがないからなのでしょう。
 
怒ること自体が悪いことではない、なぜならば神も怒られる方だからです。私たちは神のかたちを受け継ぐ者として、怒りを持つことは当然なのでしょう。しかし、怒り続けること良くない。いずれかはそれを手放す時と機会を私たちは望みつつ、今自分のうちにある怒りというものを認めたい。そのように思わされました。
 
今日の聖書の言葉は、私たちのうちにある、時には外に露出する怒りというものをなだめ、それを手放すことができるように働いてくださる神が、そして救い主イエスがおられることを感じさせるものでした。
 
どうか主よ、私のうちにある怒りをすべてご存知であるあなたが、その怒りをあなたの御心で健全なものへと導いてくださり、そしてその怒りが、あなたが良しとされるときに、わだかまりなく手放すことができますように。どうぞ私を支えてください。イエス・キリストのお名前によって祈ります。アーメン。

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