28/05/2022

2022.5.28 #日々の聖句 #ローズンゲン 聖書のことば

くじによって選ばれた本日の旧約聖書のことば
詩編146編3節
諸侯を頼みにするな
救うことのできない人間を。
 
旧約聖書に応じて選ばれた本日の新約聖書のことば
ヨハネの黙示録1章5節より
真実な証人にして死者の中から最初に生まれた方、地上の王たちの支配者、イエス・キリスト。
『聖書 聖書協会共同訳』より引用・利用
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諸侯を頼みにするな。
 
今日の旧約聖書にうたわれた詩の一文は、私たちひとりひとりに対して、頼るべきなのは誰なのかということを鮮烈に伝えているメッセージであると、私は受け止めました。そのことをさらに黙想したいと思います。
 
この詩を歌ったのは、イスラエルの王ダビデでした。ダビデも支配者のひとりとして、自分の王という立場は何ゆえに成り立っているのかということを、いつも考えていたに違いありません。日々の王としての務めのなかで起きる様々な出来事を通して、ダビデは自分の王としての限界を感じることも多々あったのではないか、そう思えてなりません。
 
リーダーとして働くというのは、多大な責任とプレッシャーに囲まれながら日々を歩むということなのかもしれません。リーダー、それはリードする者、導く者という意味です。王ならば国民を、牧師ならば教会という群れを、その他、職場や地域、家族を導く者としての務めを持つならば、その難しさというものを実感しているのではないかと思うのです。
 
そのときに、強権的に振る舞うこともできれば、声の大きさ、経験の有無、他者を黙らせることのできるような威力などで人を導くこともできるでしょう。しかし、今日の旧約聖書の言葉は私たちに伝えます。諸侯を頼みにするな/救うことのできない人間を。

その時だけだったら、人間が人間を支配することである程度の統制や団結力というものが生み出されるかもしれない。しかし、究極的にはそのような集団は、支配者がいなくなれば必ず衰えます。真に頼るべき存在を知らないからです。
 
ダビデは王として知っていました。自分自身がリーダーとして生きることができるのは、自分自身をリードし、行くべきところへ行かせ、導くところに導かれる究極の御方がおられるからだということを。それが、イスラエルの神、父なる神その御方なのだと。
 
ダビデも随分失敗しました。自分が与えられた権力を己の欲望のために使うこともありました。しかし、その結果は惨憺たるものでした。その失敗のなかでダビデは気づかされました。神のリードに自分自身を委ねるとはどういうことかを。そして、それを丸投げするのではなく、自分に与えられた責任というものを忠実に果たすことで、イスラエルの民を神の民として育て、そこに神の祝福があふれるように、王としての務めを全うしました。だから、それは究極的には失敗ではないのです。
 
私は思います。失敗とは失敗することそのものではなく、失敗を恐れて何もしないこと、失敗の出来事から何も学ばず、その経験をないがしろにすること。それこそ失敗なのだと。いわゆる失敗の出来事は、神が必ず私たちひとりひとりに大切なことを気づかせてくださり、今後どのように生きれば良いかを、神御自身が導いてくださいます。

神のリードに任せるというのは、体の良い責任転嫁では決してないのです。私たちが与えられた分、責任をもって生きるということなのではないか。そのように黙想させられました。そのためにこそ、神はすべての支配者に勝る王、復活の主であるイエス・キリストを私たちに与えてくださいました。
 
そのイエスの生きざまが、今日の私の生き方を導いてくださるのだと。そのことに希望を抱いて歩む者でありたい。そのように願わされました。今日という一日が、明日から始まる新しい一週間の良き備えの時となりますように。お祈りいたします。

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