31/01/2022

2022.1.31 #日々の聖句 #ローズンゲン 聖書のことば

くじによって選ばれた本日の旧約聖書のことば
エレミヤ書3章22節
立ち帰れ、背信の子らよ
私はあなたがたの背信を癒やそう。
我々はあなたのもとに参ります。
あなたこそ我々の神、主だからです。
 
旧約聖書に応じて選ばれた本日の新約聖書のことば
ペトロの手紙一2章25節
あなたがたは羊のようにさまよっていましたが、今は、魂の牧者であり監督者である方のもとへ立ち帰ったのです。
『聖書 聖書協会共同訳』より引用・利用
 
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今日の旧新約聖書を貫くのは、立ち帰るという言葉です。この言葉に注目して、黙想してみたいと思います。
 
立ち帰るのは誰でしょうか。旧約聖書・エレミヤ書では背信の子が、新約聖書・ペトロの手紙ではさまよっていた羊のようなあなたがたとあります。そう、私たちは背信の子でありさまよえる羊であるというのです。
 
神を必要としなくても、自分自身で歩むことができると豪語しつつも、後について行くべき群れを失い、道に迷ってしまった羊のような私たち人間。この姿を自分のこととしてイメージできるだろうかというのが、今日の聖書を黙想するうえで欠かせないと、私は受け止めました。
 
私はもう神の側にいるから立ち帰る必要はないと、私たちの姿を振り返るならば、もはやこの聖書の言葉を、私は必要としないだろう。神の言葉を必要としないということは、それすなわち、神を必要としない生き方に相通じるのではないか。そう思うのです。
 
どんなにクリスチャンとして一生懸命生きたとしても、完璧というものはどこにもありません。完璧というのは、神の国が完成したそのときに観ることができるものであって、それまでは、欠けある場で欠けたるものを持ち備えながら、生きていかなければならない。
 
だからこそ、わが身を心を振り返る作業は、私たちが神に助けていただくためには、何が何でも必要なのだと思うのです。神は、背信の子を癒されます。癒されたいかという御声に、私は癒されたいと願いつつ、素直に自らの心身を差し出すことこそ、謙遜に生きるということなのだと。
 
その癒し主こそ、魂の牧者であり監督者であるイエス・キリストであるというのが、今日の新約聖書が語るメッセージです。牧者であり監督者は、羊一匹一匹の必要を熟知されたうえで、その羊に必要な生活と、生活を支えるための糧をお与えになります。それは、羊によって違います。共通するのは、いかなる糧でも、その人にとってはベストなものが神によって与えられるということです。
 
魂のケアをされるために、監督されるために、背信の子たちは自らが背信者であることを知り、それを癒してほしいと心から願う。この願いこそ、私たちの体の向きを振り返る、立ち帰ろうとする謙遜さに結びつく。この謙遜さを、私は今日、神からいただいて生きたい。これが私の黙想でした。
 
神による豊かな癒しによって、今日も神の御心に立ち帰ることができますように。

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