30/01/2022

2022.1.30 #日々の聖句 #ローズンゲン 聖書のことば

くじによって選ばれた本日の旧約聖書のことば
ホセア書14章4節より
我々はもはや、
自らの手の業にすぎないものを
私たちの神とは二度と言いません。
 
旧約聖書に応じて選ばれた本日の新約聖書のことば
マルコによる福音書8章36節
人が全世界を手に入れても、自分の命を損なうなら、何の得があろうか。
『聖書 聖書協会共同訳』より引用・利用
 
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自らの手の業にすぎないものを、私たちの神とは二度と言うまい。
 
今日の旧約聖書が伝えるメッセージは、まさに人間にとっての長年のテーマであると言えます。ここで言う「私たちの神」とは一体何を指すのだろうか。そのあたりを深く黙想してみたいと思わされました。
 
手の業で作ったもの。それは、目に見える偶像のようなものをはるかに超える手の業であると、私は受け止めています。つまり、私たちの神とは、私たち自身のことを指しているのだと、私は強く思わされます。
 
昨日も触れましたが、人間は神から離反し、隔絶することで、自分たちが神となる道を選びました。神など必要としない。究極的には神を必要としていない自分自身の姿に気づいていない。その結果こそが、まさに旧約聖書に描かれている人間観と言えるでしょう。
 
この人間観を、聖書では「罪」という言葉で表現しました。罪とは、最終的に現れる犯罪以前に、そのように自分自身を動かそうとする、心の深みから発生する動機こそ、私たちがじっくりと見つめる対象です。
 
私の言動が、神のように礼賛する手の業になっていないだろうか。この問いに深く黙想の思いを向けたいと思います。神は本当に何を願われているか。それは私たちの誰もが分からないことです。しかし、神はヒントを私たちに与えています。それが、聖書に収められた神の言葉の数々に他なりません。
 
自らの手を業を、私たちの神とは二度としない。この決意の言葉こそ、神が与えてくださる言葉によって生きることの決意です。文字面で読むのではありません。御言葉を目の前にして、ただ黙して神の御声を聴き取ります。今、私の思いと心にあるものは、自分の手の業か、それとも神の御声か。これこそ識別の作業であり、識別を経て、私たちはこれこそ神の御業であると信じて、歩むことが許されるのでしょう。
 
それでも、私の選択が間違えることはあります。私たちは神ではありませんから、失敗もあるでしょう。しかし、それで良いのです。また戻れば良いだけの話です。そのときに必要なのは、人間の手の業を責めるのではなく、責め合うのではなく、それを放棄しようとする決意です。そうすれば、神は必ず導きを与えてくださると私は受け止めたい。
 
目に見える繁栄があっても、神との深いつながりによって生み出される命が損なわれれば、そこに何の得があろうか。その命をいただいて生かされたい。これが私の黙想でした。世界中でおこなわれる主の日の礼拝が、そのような命を感じ取ることのできる、素敵なときとなりますように。

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