29/01/2022

2022.1.29 #日々の聖句 #ローズンゲン 聖書のことば

くじによって選ばれた本日の旧約聖書のことば
エゼキエル書37章23節より
私は彼らを、罪を犯させるあらゆる背きから救い、清める。彼らは私の民となる。
 
旧約聖書に応じて選ばれた本日の新約聖書のことば
コリントの信徒への手紙一3章16節
あなたがたは神の神殿であり、神の霊が自分のうちに住んでいることを知らないのですか。
『聖書 聖書協会共同訳』より引用・利用
 
******
 
今日の旧約聖書であるエゼキエル書37章にある一節は、神が私たちの罪を洗い清めてくださることによって、私たちを救い、ご自分の民としてくださるという約束の言葉です。
 
しかし、神が私たちに与えてくださる救いの約束には、前提があります。その前に描かれている「枯れた骨の復活」と呼ばれる神の言葉です。ここに少し注目してみたいと思います。
 
枯れた骨。それは命の息吹を感じることすらできないものへの象徴であり、命の源である神との関係が隔絶された人間のさまを物語っています。枯れた骨が積み重ねられた場に、預言者エゼキエルは神の霊に導かれます。
 
この枯れた骨は復活できるかと、神はエゼキエルに問います。エゼキエルは、神がすべて御存知であることを告白します。神は枯れた骨に向かって、ご自分の言葉に聞けと命じ、霊の息吹を吹きこむと告げられました。
 
エゼキエルは、その言葉を預かって枯れた骨に向かって預言をし始めると、枯れた骨は轟音とともに骨が動き、からだが組み合わされ、ついには霊の息吹が四方八方から吹き込まれて、神によって復活の命が与えられた、という話です(37章1~14節)。
 
この前提があって、本日の旧約聖書へと導かれます。私たちの罪、それは神からの離反による隔絶の状態であり、神不在の状態、自分という神にしがみついて生きることです。それを神が清め、救うために、ご自分の霊、つまり聖霊の力と助けを余すところなく、私たち一人ひとりのうちに、注いでくださるのです。
 
聖霊は、神の言葉と連動して起こされるというのは、今日の聖書が物語るメッセージです。私たちが神の言葉に聴く時に、それをどのように聴くでしょうか。聖霊の力と助けなしに、私たちは聖書の言葉を、神の言葉として聴くことはできません。
 
聖書を単なる書物として読むか、神の言葉として読むかには、大きな隔たりがあります。なぜならば、神の言葉は、私たちを枯れた骨から躍動する命へと導く力があるからです。神は私たちにささやかれることもあれば、轟音をもってその声を知らせることもあります。いずれにせよ、そのような御声に、私たちは耳と心を傾けることができるというのです。
 
神の民、神ご自身のものとされた人間は、今日の新約聖書の言葉によれば、神の神殿そのものであると記されています。私たちが神殿とされるとは恐れ多い話です。しかし、私たちがそうされるのは、まさに「神の霊」によるものであることを知らないのですかと、私たちに問うているのです。
 
神の霊と神の言葉。車の両輪とも言えるこの働きによって、車は動き出します。私たちの思いと心に、聖霊に裏打ちされた神の言葉がいっぱいに詰まったところにこそ、神の命が宿り、私たちが神殿とされるということです。
 
今日も神の霊という息吹によって、私たち一人ひとりが生き生きと活かされる者でありますように。

0 件のコメント:

コメントを投稿