コヘレトの言葉5章6節
夢が多ければ、ますます空しくなり
夢が多ければ、ますます空しくなり
言葉も多くなる。
神を畏れよ。
旧約聖書に応じて選ばれた本日の新約聖書のことば
コロサイの信徒への手紙2章18節よりあなたがたは、自分を卑下したり、天使を礼拝したりする者から、あなたがたの救いを否定されるべきではありません。彼らは、キリストにつく代わりに、幻で見たことを頼りとし、肉の思いによっていたずらに誇っているだけです。
『聖書 聖書協会共同訳』より引用・利用
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今日の聖書には「夢」とか「幻」という言葉が登場します。聖書ではしばしば、夢や幻という言葉が良い意味で使われることがあります。眠るときに観る夢を通して、神が大切なことを教えてくださる。または、神が幻(ビジョン)を通して、私たちの行くべき道を指し示してくださるといった感じです。
しかし、今日の聖書で取り上げられている「夢」や「幻」という言葉が、良い意味で語られていないことに、皆さんもお気づきになられたのではないでしょうか。人を空しくさせ、神への畏敬の念を損なわせ、神が人に与えた救いすら否定し、キリストとともに歩むこともしなくなってしまうような言動を、私たちのうちにある夢幻がさせてしまうというのです。
夢とは、現実の出来事でもないのに、さも現実のような出来事を味わっているような気持ちを経験することです。それが睡眠中であったり、今起きていることを推測したり、将来起こることを色々考えるときに、私たちの心の内を夢が駆け巡るわけです。幻についても、同様のことが言えるでしょう。
私たちには、今日や明日、将来に起こることを誰も予測できません。しかし、これまでの経験をもとに予測して、「こうであるに違いない」と、事実に近づけようとすることがあります。そのときに、夢や幻というものが良いかたちで用いられるのか、それとも悪い意味で用いられるのか。そのことを考えるのは、私たちにとって本当に重要です。
私たちが夢や幻を見るときに、それは神の言葉に裏打ちされた御心に基づいたものでしょうか。神の言葉、御心だと言いながら、自分自身の妄想を神の言葉の威を借りて、さも神の言葉、神の御心のように語るならば、今日の聖書の言葉が指し示しているような、悲惨な結果を招いてしまいます
私の言動が、神が示してくださる希望ある夢・ビジョンなのか、それとも、私の欲求を振りまいているだけの妄想と邪推なのか。神が聖書の言葉を通して語ろうとしている御心というものに、じっくりと耳と心を傾けるならば、神は必ず、私たちにそれを見分ける力を与えてくださいますし、私たちが歩むべき道というものを、必ず指し示してくださいます。
神は悲惨な結果になることを求めず、ただひたすら私たちが幸いな者とされるように導かれる方です。私たちはそのことを今日も胸にし、神が与えられる夢や幻に期待して歩むことができますように。
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